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校長の声

校長の声『"What Knowledge Is of Most Worth?"』

 「如何なる知識が最も価値があるか。」これはイギリス哲学者ハーバート・スペンサーの著書、『教育論(知育・徳育・体育論)』の第1章のタイトルである。新しい学年の始まりに相応しい質問に聞こえるかもしれないが、この質問に含まれている重要な課題を見逃せば、かなり幅が狭い答えになる危険がある。卒業後のキャリアに役立つ知識・技能を習得することは不可欠であるが、学ぶ価値がある知識・技能を求める前にもう一つ、もっと重要な質問に気づく必要がある。習得しようとする知識・技能に意味を与える命、知識・技能が道具として支えている私達の"この命とは何か"、という質問である。

 この質問について考える手助けとして日本カトリック司教団が出版した『いのちへのまなざし』(【増補新版】、2017年)を勧めるが、今回は、聖書の多少謎めいた言葉を出発点とし、"命の大切さ"について考えてみる。箇所はヨハネによる福音、12章24節から25節。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 大学一年生を対象とする授業で取り上げた時、その大学生から実に正直な反応があった。「私はまだ、一粒のままでいたい。まだ他人のことまで考えられません。」「一粒の麦の話で、自分が死んだら次の生命につながるということは、若い人にはあまり考えてほしくないなと思いました。...若い人には懸命に生きてほしいと若い私も思います。」言うまでもなく、私みたいな人は若い世代に、このような話を聞かせることは本職である。

 人間の命は私達が「持つ」ことができる「物」ではない。むしろ、種のように、それを手放さないと、潜まれている可能性は展開できないのである。敢えて「物」のイメージでいうと、命は、神の道を歩みながら、バランスよく手で持つ神から預かった壊れやすい宝物である。いずれにしても、命と一緒に頂いた"この使命"を果たすために如何な知識が本当の価値があるのかを考えることは、命に眼差しを向ける教育の課題である。

K12.jpg1枚目(左上):いのちへのまなざしのカバー             

2枚目(右上):「一粒の麦」を引用する旧名古屋聖霊短期大学の記念碑

3枚目(下) :バランスよく互いの命を守る南山大学の応援団 KOALAS

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