校長の声『平和の祈り』
南山大学の一年生を対象とする講演会、「カトリック大学の精神とは何か」で「地の塩」の例え話のほかに、聖園女学院の生徒が朝礼で唱える「平和の祈り」を具体例として使った。南山大学の入学式と卒業式には山本直忠作曲の「平和のための祈り」が(清田健一が編曲した合唱団と管弦楽団版で)演奏される。アッシジの聖フランチェスコの作詞とされているテキストは、山本直忠の綺麗なメロディと一緒に、カトリック大学の精神を表現する作品であるが、学生からの反応の一つ
「僕は塩でも道具でもない。一人の人間です。」
のコメントは、私を色々と考えさせた。
このような反応のきっかけは「平和のための祈り」の始まりにあった。
「ああ主よ われをして おんみの平和の道具とならしめたまえ」
道具という言葉に拘れば、「とても自虐的な考え方だ」という意見は不思議ではないが、全文を読めば平和をもたらすために我々が果たすべき役割は単なる道具ではないことが見えてくる。
1枚目:アッシジの聖フランシスコの歌
確かに、原文の仏語("Seigneur, faites de moi un instrument de votre paix")と英語訳("Lord, make me an instrument of your peace")で使われている言葉は"instrument"ではあるが、「千の風になって」の作曲者として知られている新井満(上智大学法学部卒業)は「道具」と「楽器」と翻訳出来る"instrument"に着目して「神様のシンフォニー」という、上智大学創立100周年記念式典で初演された合唱曲「平和の祈り」を作曲した。歌詞は彼の自由訳で次の言葉で始まる。
「神様、おねがいがあります
どうか、このわたしを
楽器にしてください
1つの小さな楽器となって
多くの楽器たちと
力をあわせ
奏でさせてください」
各楽器それぞれの持ち前の力を合わせて戦争ではなく、平和を演奏することこそ神が我々人間に期待していることに違いない。美声の持ち主で独奏をやりたがる人も、そして練習不足で第2バイオリンに下がった人も自分にしか出来ない役割を果たして、力を合わせて神が喜ぶ曲を演奏すること、これは本物の「平和の祈り」ではないか。聖霊中高の聖歌隊、そして南山大学管弦楽団・合唱団の演奏を聞く度にそう思うのは私だけではないであろう。
参考資料:
聖霊中学校高等学校聖歌隊 平和のための祈り:https://www.youtube.com/watch?v=WcyKC00eOSQ
南山大学管弦楽団・合唱団 平和のための祈り:https://www.youtube.com/watch?v=pbueokyITH0
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