校長の声アーカイブ - 聖園だより|聖園女学院中学校・高等学校

聖園女学院中・高等学校

聖園だより

Puzzle

 34年前、ヨーロッパ研修旅行の引率の時、イタリアのミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチの名作「最後の晩餐」を観賞する機会があった。保存状態が悪く、原作の姿を保っているのはほかの画家が描いたコピーだという説明を受けたが、それにしてもイエスとその弟子達とのやりとりをリアルに伝えている様子は印象深かった。

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 聖園の手芸部の生徒が取り組んだプロジェクトの中にはダ・ヴィンチのこの名作をクロス・スティッチの刺繍で再現する作品がある。10年をかけて出来上がった完成品は講堂の後ろに飾ってある。原作に近いコピーが目的であれば、写真を撮った方が早いが、長い時間をかけて作り上げた刺繍は、元の作品の魅力を別の形で伝えていることは確かである。何故かというと、近くから見ればクロス・スティッチのバラバラの針目しか見えないが、距離をとって眺めれば全体像が浮かび上がってくるのである。

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 神言会の黙想の家には同じ「最後の晩餐」の複写が飾ってあるが、これは原作の写真を元にしたジグソーパズルである。クロス・スティッチと同様、近くから見れば各紙片がくっきりと見えてくるが、一歩下がって観察すれば、このような細かいところは1つの絵にまとまってくるのである。

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 ミラノで見た現物は印象深かったが、刺繍やジグソーパズルの作品を見て色々と考えさせられた。

 人生とは、ジグソーパズルのように、既製品から組み合わせる作業であろうか。或いは糸と針を使って1つのイメージを再現する作業であろうか。それとも(ダ・ヴィンチのように)一人で創り上げるオリジナルの芸術作品の創作であろうか。

 意見の分かれる事柄ではあるが、1つだけは言えると私は思う。人生は正解があるパズル・謎である。創り上げるには必要な材料と道具、組み立てに必要な小片、そして他の人と違うイメージを生み出すための想像力は神が提供してくださる。いずれにしても、全体像を見るには長い時間を使って細かい作業に取り組まなければならないという覚悟は必要であろう。

自己紹介

K17-1.jpg 初めて会う方に渡す名刺のことを英語で"business card"と呼ぶ。基本的な情報(氏名、会社、役職、連絡先等)が記載されている商売に役立つ一枚の紙なので、極めて的確な名称である。仕事の一環として長年名刺交換をしてきたせいか、名刺がなければどうなるのか、と心配するときもあるが、自己紹介ぐらいなら、日本に来て間もないうちに日本語学校で教えてもらった台詞で十分に自己紹介できる。「カルマノと申します。ドイツから来ました。よろしくお願いします。」

 限られた日本語力で会話を続けることは決して簡単ではないが、言葉の壁を乗り越えて、また次の難問が待ち構えている。同じ母語同士で話し合っても、互いに話が通じない時は多々ある。では、神と人間との初顔合わせのときはどうなるのであろうか。

K17-2.jpg 1つの具体例は初めて神に出会うモーセの話である。神からのメッセージをイスラエル人に伝えるとき「その名は一体何か」と聞かれたらどう答えるべきかというモーセの質問に対して、神の自己紹介は実に興味深い:「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」「わたしは『ある』ものである」。(出エジプト記314節、原文校訂による口語訳、フランシスコ会聖書研究所訳注。)

 一枚の名刺に印刷すれば、先の「美蛙」の名刺と比べると情報が少ないように見えるかも知れないが、ヘブライ語の原文に近い未来形の動詞英語で"I will be what I will be" - と翻訳すれば、この神の名前だけでも完結な、必要な情報を全て提供する自己紹介になる。分厚い聖書に記載されている神の自己紹介を一枚の名刺にまとめることができる。「連絡先はその時その場で教えてあげるから心配しないで」、と。

 ちなみに、いつでもどこでも連絡できる方の自己紹介を正しく聞き取れるためには、普段情報交換に使っている名刺入れとスマホを定期的に自分の手が届かない所にしまっておく必要がある。

バベルの塔

 同じ人間なのに、人は何故数多くの言語で話しているのか。旧約聖書の「バベルの塔」の神話は極めてわかりやすい説明になる。人々はかつて共通言語を用いていた。その人々はとんでもない企画として「天に届く塔を建てよう」と呼びかけた。それを知った神の怒りにふれて、人々は共通言語を失った。互いに話が通じなくなった「彼らはこの町の建設をやめた」という結果になった。(創世記11章7節)

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 この納得がいく、分かりやすい説明の延長線で考えると、外国語教育は真に天罰の続編に見える反面、でたらめな英語表記を訂正できる外国語の先生にとって雇用保障となっている。

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 バベルの塔の失敗がもたらした被害はめんどくさい外国語を学ぶ授業だけではない。自分の言語と文化を根拠にして、何も考えずにほかの言語で話す人を位置づけてしまう危険に、いつも注意すべきであろう。古代ギリシアの人はギリシア語を話せない、ギリシアの慣習を知らない人をßάρßaροι(バルバロイ)と呼んでいたが、この言葉は今でもヨーロッパの言語で「野蛮人」という意味で使われている。英語を使って仕事ができない人は、グローバルな社会に貢献できないという偏見に通じる側面があるのではないか。

 色々な外国語を教えたり学んだりする取り組みを神が下した罰の悪影響として、少しでも和らげる努力を評価すべきか、それとも批判すべきか。どちらにしても、注目すべきところは外国語教育の目的であろう。神が混乱させた外国語の裏には1つの重要なメッセージが隠れている。色々な言語でコミュニケーションをとれる人間であるからこそ、私達にはこの貴重な能力を活かして全ての人が一緒に生活できる"common home"(「ともに暮らす家」)を築ける使命がある。

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 バベルの塔のようなものは、やはり要らないと教えてくださった神にThank You!を言いたい。

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恵み

 色々なことで悩んで愚痴をこぼす時に言われる言葉がある:

"count your blessings"

 悪いことにだけ目を奪われず、神がくださる多くの恵みを数えよという、多少お叱りが含まれている励ましの言葉である。神の恵みは果たしてそう簡単に数えることが出来るものかという疑問はあるが、自分が置かれている状況を別の観点から見直す助言としてはそれなりの説得力があろう。

K15-1.jpg このような観点でものを捉えると、職員室に置いてある大きな字で「恵み」と書いてある石に圧倒されそうな小さなペンギンの小物もある。本物の恵みであれば、これは我々人間が把握できる範囲を遙かに超えているだけでなく、その形も色々ある。 

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 一歩前に出ろと、優しく肩を叩くような励ましもあれば、これより先に行ってはいけないと告げる障害物もある。そして場合によっては多くの仲間を無視して、全く違う自分を相応しい方向に導く頑固さにもなる。なお、どちらにしても、この恵みの全ては人間と神を結ぶ紐付きのプレゼントであることを忘れてはならない。 

K15-3.jpg 梅雨の鬱陶しい曇り空から降ってくるものは間違いなく恵みの雨であるということは蛙にとって常識であるが、ペンギンも納得するためにある程度の工夫(例えば語り合うときにちょっとだけ美味しいものをさしあげること)は必要である。色々なサイズと形で降ってくる数え切れない恵みを見逃さないで神の配慮に気付く事は、幸せな人生を送る秘訣かもしれない。

早起きは三文の得

 昨年4月の引っ越しの際、名古屋から藤沢に持ってきた数少ない書物の中に「ことわざの泉―日・英独仏中対照諺辞典」(高嶋泰二(著)、北星堂書店、増補版、1981年)という本が入っていた。各項目で直訳と一緒に、それぞれの言語で同じ意味を表す諺も紹介されているので、「なるほど」と思わされた発見は何回もあった。例えばタイトルの「早起きは三文の得」は英語で"The early bird gets the worm"(早起きの鳥はミミズを捕らえる)、ドイツ語で"Morgenstund hat Gold im Mund"(暁は口中に金を持つ)となり、イメージが違っていても言葉と文化を越えて、早起きの価値を称賛するメッセージは伝わってくる。

 ところで、旧約聖書には非常に現実的な観察がある。「朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。」(箴言27章14節)早起きの功罪に関する賛否両論の議論をまたいつかの機会にして、このような諺が表している知恵の出所に注目したい。つまり、人生に意味と方向性を与える知恵には、著作権があるのであろうか。

 伝教大師最澄の「忘己利他」(おのれを忘れて他を利する)はイエスの「隣人を自分と同じように愛しなさい」に通じるだけでなく、「愛人如己」という四字熟語に変えれば、その共通点がよく見えてくるのではないかと私は思う。聖園女学院の教育理念、Reiners師の「一人の存在は必ず一つの貴い使命・ミッションを持っている」に相当する有名な人類学者のJane Goodallの言葉がある。"Every individual matters. Every individual has a role to play. Every individual makes a difference."(各個人は大事で、特別な役割を持ち、必ず違いをもたらす。)

 言葉と文化を越えて通ずる知恵であるから、その著作権は宇宙の作り主にあることにしたい。この知恵を色々な言語で表しているからこそ、その豊かさをもっと深く味わうことが出来る。外国語を勉強することは三文の得にもなるであろうが、神の知恵をもっと深く理解できるという副作用はもっと価値があるかもしれない。

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"The pen is mightier than the sword"

 人類の長い歴史を振り返ってみれば、武器と文具の力比べは「ペンは剣よりも強し」という、単なる希望的観測ではないと言えるであろう。何故かというと、人間の本当の強みは競争相手を腕力で押さえることではなく、真理を見極める理性で愛の輪を広げることにあるからである。剣の暴力に勝つペンの秘訣は恐れず真理を伝えるところにあるが、この真理の力の内密は何であろうか。聖書からの二つの言葉は参考になると思う。先ず旧約聖書の言葉。

 「口には神をあがめる歌があり/手には両刃の剣を持つ。」(詩篇149編6節)

 賛美歌を歌いながら、人を傷つけることは、いかがなものかという印象を受けるかもしれないが、「詩編」は(表現を少し変えながら)同じ事を2回並べた形で書かれた文学作品である。"祈りこそ我々人間を守る神の力となる"という意味であろう。この力をもう少し詳しく説明しているのは新約聖書からの次の箇所である。

 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ人への手紙4章12節)

 換言すれば、神の言葉は両刃の剣であって、自分の都合がいい目的に使える武器ではない。

 昨年は宗教改革の500周年記念の年であったが、妹は宗教改革者ルーテルの面白い小立像を贈ってくれた。聖書の立派なドイツ語翻訳を成し遂げたルーテルのペンこそ「剣よりも強し」だと思って校長室に飾ってある。その直ぐ隣にバチカンのスイス衛兵の小立像が置いてある。ルーテルのペンはバチカンの矛(ほこ)よりも強かったかもしれないが、今二人は仲良く並んで、人の心を動かす神の力を表していると私は思う。

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新入生への励ましの言葉

 新しく聖園女学院に入学した中学校一年生、保護者の皆様を心から歓迎します。今日から6年間の聖園での長い学校生活に入る皆さんに励ましの言葉を贈ります。

 新しいことに手を付ける時に、必ず色々なチャレンジがあります。予想も出来なかった難しい課題も見えてきます。

 しかし、チャレンジ・課題だと言っても、皆さんが持っている力で対応できるもの & 皆さんの成長に貢献するものがあります。

  例えば、藤沢本町からの長い坂道は、足が丈夫になります。

  聖園の新しい制服は、自分の個性を表面的な服装ではなく、自分の言葉と行いで表すものです。

  「宗教」という少し変わった教科は、自分が何を信じて生きているかを考えさせる授業です。

  お祈りで始まる毎日は、自分が何に向けて先に進んでいるのかを考える時間にしてください。

 実は、この毎日の祈りの時間は皆さんを支える力になると確信しています。かかってくるチャレンジを正しく理解し、受け容れることを手伝う静かな黙想の時間が役に立ちます。

 もう一つ、皆さんの助けとなるのは友達作りです。聖園のチャレンジに直面して困っているのはあなただけではありません。隣に座っている友達と分かち合ってみてください。

 キリスト教的な言葉に代えると、『神はあなたを必ず見守って、あなたを一人にはしない。』

 最後に、一つの課題としてJosef Reiners(聖心の布教姉妹会・南山学園の創立者・神言会司祭)の言葉を紹介します。

 「一人の存在は必ず一つの貴い使命・ミッションを持っている。」これはMission Schoolである聖園の理念と目標を表す言葉です。聖園が目指している目標は自己理解:自分の使命・ミッションを自分で見つけることです。

 それに関連して、保護者の皆様にお願いがあります。聖園の使命は学校だけでは実現できません。お嬢様が自分のミッションを見つけて成長するためには保護者の皆様と学校との協力体制が不可欠です。

 これで私の「励ましの言葉」は終わりますが、今後、学校・保護者・生徒が手を組んで、互いを励まし合うことができるように祈っています。

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"What Knowledge Is of Most Worth?"

 「如何なる知識が最も価値があるか。」これはイギリス哲学者ハーバート・スペンサーの著書、『教育論(知育・徳育・体育論)』の第1章のタイトルである。新しい学年の始まりに相応しい質問に聞こえるかもしれないが、この質問に含まれている重要な課題を見逃せば、かなり幅が狭い答えになる危険がある。卒業後のキャリアに役立つ知識・技能を習得することは不可欠であるが、学ぶ価値がある知識・技能を求める前にもう一つ、もっと重要な質問に気づく必要がある。習得しようとする知識・技能に意味を与える命、知識・技能が道具として支えている私達の"この命とは何か"、という質問である。

 この質問について考える手助けとして日本カトリック司教団が出版した『いのちへのまなざし』(【増補新版】、2017年)を勧めるが、今回は、聖書の多少謎めいた言葉を出発点とし、"命の大切さ"について考えてみる。箇所はヨハネによる福音、12章24節から25節。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 大学一年生を対象とする授業で取り上げた時、その大学生から実に正直な反応があった。「私はまだ、一粒のままでいたい。まだ他人のことまで考えられません。」「一粒の麦の話で、自分が死んだら次の生命につながるということは、若い人にはあまり考えてほしくないなと思いました。...若い人には懸命に生きてほしいと若い私も思います。」言うまでもなく、私みたいな人は若い世代に、このような話を聞かせることは本職である。

 人間の命は私達が「持つ」ことができる「物」ではない。むしろ、種のように、それを手放さないと、潜まれている可能性は展開できないのである。敢えて「物」のイメージでいうと、命は、神の道を歩みながら、バランスよく手で持つ神から預かった壊れやすい宝物である。いずれにしても、命と一緒に頂いた"この使命"を果たすために如何な知識が本当の価値があるのかを考えることは、命に眼差しを向ける教育の課題である。

K12.jpg1枚目(左上):いのちへのまなざしのカバー             

 2枚目(右上):「一粒の麦」を引用する旧名古屋聖霊短期大学の記念碑 

3枚目(下)   :バランスよく互いの命を守る南山大学の応援団 KOALAS

昔話

 昔話と言えば概ね、お年寄りが自分の経験と得意な知識を、興味も関係もない若い人に押しつける一方的なおしゃべりだという印象をうけるが、今回の「校長の声」は正にこのような昔話になると警告して、本論に入る。

 死語とも言われているラテン語は、毎日全世界のカトリック教会のミサで生きていた言葉であったということは昔話のように聞こえるかもしれないが、教会の典礼が各国の言葉で行われるようになってからまだ55年しか経っていない。この改革をもたらしたのは第二バチカン公会議(1962-1965)であったが、変わったのは言語だけではなく、典礼に使われているテキストにも変化が見られる。個人的に気になるのはレクイエム(死者のためのミサ)から姿を消した"Dies Irae, Dies Illa" (「怒りの日」)、福音朗読の前に歌われた、最後の審判を劇的に描くセクエンツィア(続唱)である。

 気になる理由は音楽である。このテキストは今でもレクイエムのいくつかの名曲(モーツァルト、ヴェルディ、ベルリオーズ)の中で生き続けていて、人を感動させているのである。しかも、「怒りの日」のグレゴリオ聖歌のメロディは、レクイエムと全く関係ない曲にもよく使われている。例えば、ベルリオーズの幻想交響曲に登場するタイミングはこの曲の不思議な雰囲気を醸し出す一つの要因なのである。

 ところで、一つのメロディの使用は決して一方通行ではない。アニマルズのヒット曲「朝日のあたる家」(元々アメリカ合衆国のフォーク・ソング)のメロディに予想しなかったところで出合った。会議のために滞在していたブラジルの町でミサ曲の一部に使われていた。もっと昔の話になるが、ポップソングのメロディがミサ曲になる例は数多くある。有名なのは15世紀のジョスカン・デ・プレのミサ曲「武装した人」である。そしてバッハのマタイ受難曲で大事な場面をマークする聖歌、"O Haupt voll Blut und Wunden"、「おお、血と涙にまみれた御頭よ!」のメロディは元々憧れの女性を慕う恋の歌であった。

 今年の3月25日からの一週間を教会はイエスの死と復活を記念する「聖週間」として祝う。2000年前の出来事が単なる「昔話」で終わらない、私達に話しかける生きている物語になるために、それを記念する典礼の厳粛な伝統を親しみやすいポップソングのメロディで歌うことも必要であると思う。人類のために死の苦しみを受けてくださった神の子イエスに心に訴える新しいlove songを歌うことは各時代の課題となっているからである。

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1枚目:"Dies Irae, Dies Illa"のグレゴリオ聖歌のメロディ

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2枚目:"L'homme armé"「武装した人」のメロディ

K11-3.jpg3枚目:毎年の10月に南山大学のパッヘスクエアで行われる野外宗教劇『受難』も

このようなlove songの具体例であろう。

四旬節

 カトリック教会は季節によって祭服の色を使い分けているが、節制と悔い改めの象徴と見なされている紫を使う時期はクリスマス前のおおよそ4週間の待降節、そして復活祭前の40日間の四旬節である。和洋折衷の祭りで言えば、四旬節は(どんちゃん騒ぎの)節分と(卵探しの)Easter Bunny(イースターのウサギ)と、息抜きのために3月3日のひな祭りが挟まれている期間である。ドイツ語では馬鹿正直に"Fastenzeit"、断食節と呼ばれているが、英語の"Lent"の語源は「春」、ラテン語の"Quadragesima"は40(日)で、具体的に何をするかを定めない期間の名称となっている。

 聖書には40日の四旬節と断食を結びつけるいくつかの話があるが、代表的なものとして新約聖書からマルコによる福音の第1章、12節~13節を紹介する。イエスがヨルダン川で洗礼を受けた後の話である。

 「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

 この最初の四旬節が終わった後、イエスは本格的に神の国を伝える宣教活動を始めたが、我々人間にもやはりこのような期間が必要であろう、砂漠のように荒れ果てた自分の心を見つめ直す四旬節として...

 考えてみれば、これは四旬節だけのことではない。整理整頓だけで解決できる問題でもない。自分の成長に繋がる活動を見つけ、人生の限られた時間を有効に使うことは、季節と関係ない継続課題である。

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1枚目&2枚目:整理整頓で解決できる問題の具体例二つ

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3枚目:カリタスジャパンの「四旬節 愛の募金」ポスター(2018)

お陰様で

 2月14日はバレンタインデーという祝い日であるが、国によってその内容はかなり違う。(ウィキペディアで"Valentine's Day"を検索すればその多様性は見えてくる。)「義理チョコ」のような造語は日本型バレンタインデーの特徴を表しているが、今年の2月14日はカトリック教会の別な祝い日と重なっている。これはカーニバル・シーズンに終止符を打ち、チョコレート等のような甘い食べ物を控える、節制に勤める「四旬節」の始まりをマークする「灰の水曜日」である。モロゾフや明治の売り上げはあまり伸びないかもしれないが、お陰様で、今年は○○チョコの配りを辞めて、相手の霊的生活の向上に貢献するチャンスが廻ってくるのである。

 感謝の気持ちを表す「お陰様」の言葉は聖書にもある。「瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。」(詩編17編8節)実に興味深いイメージである。私達を守っているのは爆弾攻撃に耐える地下壕ではなく、私達の周りを動き廻り、場合によってその翼に載せてくださる神である。(だからこそ神の御使いである天使には翼が必要である。) 

 お陰様の元々の意味に近いもう一つの例は昔(フラッシュの代わりに)使っていた閃光粉(せんこうふん)である。キャンプファイアーに閃光粉を蒔いて写真を撮るときかなり眩しくなるので、カメラとキャンプファイアーの間にギターを弾く一人が立ってもらった。お陰様でいい写真が出来てのではないか、と私は思う。(海岸で砂に残っている足跡の向こうに見える日没の斜陽のまぶしさにはまた別な魅力があるが。)考えてみれば、我々と同じような人間になってくださったことは神の特別な配慮に違いない。目に見えない大きな光の前にイエスの姿があるからこそ、お陰様で人生にとって大切なことがはっきりと見えてくる。(例えば義理チョコではなく、普通の食べ物を必要とする人。)

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1枚目:ボーイスカウトのキャンプファイアー (1964年)

 

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2枚目:藤沢の海岸 (2017年)

 

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3枚目:カリタスジャパンの「四旬節 愛の募金」ポスター (毎年)

ミカエル

 お正月にちょっとだけ明るい話にしたいと思ったところ、浮かんできたのはカトリック教会の典礼からの言葉:

in lucem sanctam 聖なる光へ

 東から登ってくる光はいつもと同じ太陽であるが、元日に見える日の出はやはり特別であろう。元日に早起きして初日の出を見に行くのは少数派かもしれないが、晴れ着での初詣に出かけることとともに、日本のお正月であろう。

 ところで、先の「聖なる光へ」は別な方向を向いている。これは初日の出にではなく、最後の日に見える光の話である。引用されている箇所は「レクイエム」、死者のためのミサからの奉献唱である。

"Signifer sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam."

「旗手たる聖ミカエルが彼らの魂を聖なる光へと導きますように。」

 ここの「彼ら」は「全ての死せる信者」のことである。"New Year Resolution"、新しい年の初めに掲げる決意には、年によって、それぞれ違う目標が表明されるであろうが、このような新しい出発点においても人生の最終目的、神である「聖なる光」に向かって歩み続けることは変わらない。

 変わらないことはもう一つある。この世に生きている時から私達の道を見守ってくださる大天使ミカエルの導きである。「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わす時こそ、私達の決意を応援してくださる方々とともに、神の旗手である大天使ミカエルにも感謝したい。

 この辺でお正月と大天使ミカエルの話を締めてもいいかもしれないが、折角なので聖園女学院のミカエルについて紹介させていただく。ミヒャエルスベルクの大天使とちょっと違って、正門に近いところで構えているミカエルは「3・蛙」の形で生徒の登下校を見守っているのである。無論、当然ながら本学院へ来校される方で、この「3・蛙」に気づかれない方でも見守られている。

 聖園女学院は、今年も、生徒と卒業生が安心してカエルことが出来る場であり続けることを祈っている。

K8-1.jpg1枚目:ドイツのSiegburgの名所であるMichaelsberg( ミヒャエルスベルク)の聖堂にある

大天使ミカエルの像。

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2枚目:盾に書いてある "QUIS UT DEUS"「神に似たるものは誰か」は

元のヘブライ語である「ミカエル」の翻訳。

K8-3.jpg3枚目:「3・蛙」

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4枚目:「3・蛙」の目線から世を見る。

Recreation

 「クリスマス」とは何か、という質問に対して「イエス・キリストの誕生日」は正解であるが、事実を並べる説明だけでは納得がいく答えにはならないであろう。何故かというと、クリスマスは世界中で色々な形で(時々キリスト教的背景が見えなくなるほど)祝われている祭りとなっているからである。どちらが本物のクリスマスであるかは多少気になるが、一言だけは言えると思う。クリスマスは時代、文化そして宗教の境界線を越える"Happy Birthday"の祝い、大勢の人が毎年ハッピーとなる誕生の祝いとなっているのである。したがって、花見と同様、イエスの誕生もお酒を飲む口実になってしまう可能性はあるが、このような(悪く言えば)単なる"recreation"、娯楽には一つの重要な側面がある。皆で楽しく祝っている祝日は多くの人と共有できる懐かしい思い出の源となる。一つの具体例として、昔のカルマノ家のクリスマスを紹介する。

 クリスマスツリーと一緒に居間で飾った馬小屋はお爺さん(母の父)がつくったものだが、下敷きには必ずカルマノ家のきょうだいが森で集めた苔を使っていた。つまり、毎年この馬小屋を自分が集めた苔でもう一度"re-create"再生(再創?)し、自分のものにすることは我々きょうだいにとって大事な思い出となっている。

 出来上がった馬小屋の外見は(例えば)Puerto RicoのSan Juan、南山大学のキャンパスや神言神学院のチャペルにあるものと比較できないほど違うが、決定的な違いはやはり毎年きょうだいと一緒に積み重ねた苔集めの特別な思い出である。南山学園の聖霊中高が毎年12月24日の夕方に名古屋の中心で実施しているクリスマスコンサート「Eve, My 青春!」、そして聖園女学院のクリスマスキャロルとタブローには同じような効果があるのではないかと私は思う。

 "Christmas"は"Get-mas"、神からの大きなプレゼントをゲットできたことから始まった、イエスの誕生を通して神は私達の世界をもう一度根本からre-createしてくださったプレゼント。しかも、最初の天地創造の時と違って、神が子供として生まれ、世界の内から働きかける"re-creationであった。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音18章)人に説くことを自分でも実行する、模範を示してくださったイエス。その誕生を祝うクリスマスが今年も皆さんの良い思い出になることを祈っている。

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1枚目:カルマノ家の馬小屋

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2枚目:プエルトリコのサンフアンで見た馬小屋

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3枚目:南山大学のキャンパスに毎年飾ってある馬小屋

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4枚目:神言神学院のチャペルに飾ってある馬小屋

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5枚目:聖霊中学校高等学校のクリスマスコンサート(名古屋の栄)

Rainbows

 「何故、目に見えないものを信じようとするのですか?」

 これは高3の生徒が宗教の時間で取り上げて欲しい質問である。一つの答えは「星の王子様」に登場するキツネの言葉であろう。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」もう一つの対応は昔あるマンガで見つけた名言である:"If you don't know the answer ... question the question"「答えが分からなければ質問にケチをつけてみるがよい。」しかし、上のような質問を議論せず簡単に片付けようとするのはあまりよくない。丁寧に取り組む必要がある。

 一つのヒントは画家ピカソが芸術の役割について残した言葉である。"We all know that Art is not truth. Art is a lie that makes us realize truth"「芸術が真実でない事は誰もが知っている。芸術とは真実を悟らせてくれる嘘である。」ところで、このような重要な役割を担っているのは芸術だけではない。日常の自然現象にも真実を悟らせる機能がある。一つの具体例は雨の後に果てしなく空を渡る虹である。

 観察すれば世界中のどこでも全く同じように見える自然現象である虹には、何故色々な(科学的な裏付けのない)話が纏わっているのであろうか。日本にはイザナギとイザナミが虹を渡って下界に来たという神話がある。(下界に降りた道は天橋立だったという説もあるが、)アイルランドの古い伝説は、虹の麓には黄金の壺があると約束している。そして旧約聖書創世記9章17節によると、虹は神と人間との間に結ばれた平和の契約のシンボルである。「神はノアに言われた。『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」

 科学に頼れば、光という自然現象の効果として完璧に解明できる虹であるが、空の虹を見上げる時、事実と関係ないストーリーが私達に見えてくるのは何故であろうか。このようなストーリーは元々私達の心にあって、私達はその(偏見と思われるような)観点から物事を見ている。これは心理学の説明である。しかし、ストーリーはどのようにして私達の心に入ってきたのだろうという問いは、最初に引用した生徒の質問と同様、心理学が取り扱える領域を超えている。

 人類のはじめから、人間は何故目に見えないものを信じようとしてきたのか。詩編36編10節に書いてある言葉は参考になるのではないか。「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは(虹の)光を見る」。

K601.jpg1枚目:オーストラリア(Fremantle)で見た虹

K602.jpg2枚目:ドイツの実家から見た虹

K603.jpg3枚目:みその台から見た虹

K604.jpg4枚目:京都府宮津市の天橋立

 10月17日(土)には「善行雑学大学」が企画した「グリーンハウス物語第21話 - シスターたちが散策したゴルフ場跡地 -」が実施された。布教と学校教育に専念する聖園女学院のシスターたちはゴルフと全く縁のない生活しているであろうが、似たような例は昔からある。たとえばドイツのトリーアでローマ帝国のコンスタンティン皇帝が4世紀の初め頃に建築した講堂(Aula Palatina)は、今は教会として使われている。そして西暦126年にローマの神々を奉る万神殿として建設されたパンテオンはその後、唯一の神を拝む礼拝堂になったのである。考えてみれば、神が創造した1つの宇宙・世界なので、このような転換は決して不思議ではない。

 ところで、神奈川県立体育センター地域内に残っている旧藤沢カントリー倶楽部のクラブハウスについて5月頃南山大学同窓会の方から情報が入った。その設計者は、1964年に完成した南山大学のキャンパスを設計した、前々回の「校長の声」にでも紹介したAntonin Raymondである。この卒業生が曰く、「聖園のすぐ近くにもまたRaymondの建物があるのは本当に不思議な縁ですね。」ちなみに、南山大学に隣接する神言神学院もRaymondの設計である。

 グリーンハウスに興味がある方々が聖園をも見学することになったのは本当に喜ばしいことである。ここに言うまでもなく、聖園女学院と南山学園を繋ぐ縁は、Antonin Raymondが設計した建物よりはるかに深い。宣教修道会である神言会の総長によって日本に派遣されたライネルス師が、聖心の布教姉妹会そして南山学園を創立したことは2つの学校法人の合併に至った縁ではあるが、ここには大きな力が働いている違いない。   -場所、建物、人が多様に変化する世界の出来事を繋ぐ縁の裏には私達を見守ってくださる神の摂理がある- という信念は聖園女学院、そして南山学園の教育を創立以来支えてきた。何故かというと(ある歌の言葉を借りて)、神は全世界をその御手にもっているからである。 -"He's got the whole world in his hands"-

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1枚目:Aula Palatina(ドイツ・トリーア) 外観

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2枚目:Aula Palatina(ドイツ・トリーア) 内部

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3枚目:パンテオン(ローマ)

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4枚目:グリーンハウス(藤沢市善行)

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5枚目:南山大学キャンパス(名古屋)・春

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6枚目:南山大学キャンパス(名古屋)・冬

5-7.jpg7枚目:神言神学院のチャペル内

「十字架称賛」

 カトリック教会の典礼歴には沢山の祝い日はあるが、9月で目立つのは29日の大天使ミカエルの記念日、そして14日の「十字架称賛」の祝日である。大天使ミカエルのことはまたいつか話すことにして、今回は「十字架称賛」について多少個人的な観想を紹介する。

 このような話題は多少の違和感を与える内容に見えるかもしれない。何故かというと、称賛されているのは間違いなく、ローマ帝国の時代に多くの人を苦しませた死刑の道具だからである。しかし、私にとって称賛されるのは、痛ましい磔(はりつけ)よりも、故郷ドイツのLimburg(リンブルク)の大聖堂の博物館に展示されている珍しいもの、イエスがつけられたと言われている十字架の断片である。小さいときから「これは間違いなく本物だ」と信じた私は、(考古学者の意見を無視して)今でもそれを疑う必要はないと思う。大聖堂とともに、この貴重な遺物は学校で学んだヨーロッパの歴史と自分の古里とを繋ぐリンクとなっているのである。十字軍が破壊した東ローマ帝国の首都から持ち出されたものではあるが、小さいときから親しんできた大聖堂と一緒に誇りに思っているのである。因みに、(ユーロがヨーロッパの通貨になる前に)ドイツマルクの1番大きい千マルクの紙幣を飾ったのはこの大聖堂の絵であった。

 -残酷な死刑、ちょっとだけ疑わしい遺物、キリスト教と戦争、宗教とお金の微妙な絡み-このような複雑な背景を把握していない世代にとって、リンブルク教区が毎年盛大な祝祭行事となっている。この十字架称賛の祝日は、私のような古いものには懐かしい思い出となっている。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音、18章3節)と言った人は、矛盾と反省すべき点を厳しく批判しながらも、信頼と愛の大切さを教えてくださった。だからこそ罪のない方が貼り付けられた十字架はこのような信頼と愛の象徴として今でも称賛されるのである。

上空からの写真.jpgのサムネイル画像

1枚目:リンブルク大聖堂 上空からの写真

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2枚目:リンブルク大聖堂 外観

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3枚目:リンブルク大聖堂内の十字架

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4枚目:千マルク紙幣

Retreat

 「軽井沢」と言えば、「ショッピングできる避暑地」というイメージを持っている方が多いかもしれないが、この軽井沢には宗教と関係がある名所もある。軽井沢銀座からChurch Street(教会通り)を通ればアントニン・レイモンドが設計した聖パウロ教会、サンセットポイントとして知られている旧碓氷峠の方面に行けばショー記念礼拝堂、そして雲場池の近くには神言修道会の黙想の家がある。

 黙想の家のことを英語でretreat houseと呼ぶが、この"retreat"という言葉には"to go on retreat"、静かに自分の今まで歩いてきた人生の意味を振り返る「黙想・静修」のほかに、(敗北で終わる可能性がある)戦いからの"retreat"、撤退という意味がある。換言すれば、「黙想」には逃げて撤退する側面は欠かせない。 「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ」(旧約聖書の詩編18編3節)で示されているように、この世の煩悩から神の所に身を潜めたくなる時もあるからである。

 殆ど毎年の夏この黙想の家で静かな時間を過ごしてきた私にとって、軽井沢は-何が本当に大事であるかを考えるための-文字通りの「逃れ場」、日常の雑業に負けないように戦略的な撤退を可能にする場である。言うまでもなく、このような場は軽井沢だけではない。年間行事の「静修の日」が行われている聖園女学院の講堂は今年もまた参加者にとって過去を振り返り、そして今後のことを考えることができる「逃れ場」になることを祈っている。

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1枚目:軽井沢銀座

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2枚目:軽井沢銀座から見たChurch Street

K33.jpg3枚目:聖パウロ教会外見

K34.jpg4枚目:聖パウロ教会内

K35.jpg5枚目:ショー記念礼拝堂

K36.jpg6枚目:雲場池

K37.jpg7枚目:神言会軽井沢修道院

K38.jpg8枚目:神言会軽井沢修道院チャペル

 

Holidays

 学年を前期と後期にわける、教員・生徒が共に楽しみにしている夏休みとは何か。英語の"holiday"、ドイツ語の"Feiertag"、そしてフランス語の"jour férié"を出発点として、比較文化的な観点からこの勉強とは全く関係ない期間とされているシーズンの意義について考察することにした。

 ただし、今示した3言語の言葉を(仕事や学校のない)「休日」と翻訳できるが、その語源を見る限り、どちらも、大事なことを祝う日として、宗教的な背景がある。Holidayは、文字通り、holy、聖なる日であり、そしてドイツ語とフランス語はラテン語のferiae、神聖な行事を行う祭日である。しかし、夏休みのような休日の連続になると、話は変わる。ドイツ語のSommerferienは宗教的な側面を保っているように見えるかもしれないが、実際に英語とフランス語とが表している同じ現状を指している。ラテン語のvacare、「空白の状態である」に由来する英語の"vacation"とフランス語の"vacances"は宗教と関係ない有給休暇、何の予定も入っていない、空っぽな日の連続なのである。

 考えてみれば、日本にも似たような現象が見られる。昭和天皇の誕生日(昭和の日)、憲法記念日、そしてこどもの日(元々端午の節句)は祝っている内容が無視され、毎年交通渋滞と電車・飛行機の満席でニュースとなる連休に過ぎない。本来大事なことを祝う(祀る)ために設けられた祝日・祭日は単なる「休日」になっている現状を考えれば、聖園女学院の誕生日・創立記念日である5月30日に職員黙想会が開催されることは極めて有意義な企画である。(蛇足になるが、国際的なランキングの休日の数であれば、日本の16日は、韓国等と一緒に第2位である。第1位はインドとコロンビアの18日。)

 さて、かなり批判的な前置きになってしまったが、最後に有意義な夏休みについて自分なりの提案を手短く紹介したい。夏休みの「休」の字はヒントになると思う。「木」にもたれてくつろいでいる「人」のイメージはsummer vacation, Sommerferien, vacancesの精髄を表している気がする。(なお、この都合がいい解釈はあくまでも一人の偏屈な外人の勝手な想像として受け止めてほしい。)しかも、これは決して使徒パウロが批判している「怠惰な生活」(テサロニケの信徒への第2の手紙3章11節)ではない。むしろ自分にしかできないことに打ち込む活動を通して、「自分の木」の下で(大江健三郎著)、自分の本当の姿を再発見できるチャンスは、夏休みのholy daysの元々の意味ではないかと私は思う。

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Ⅰ枚目:日本の夏休み

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2枚目:オランダの夏休み

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3枚目:フランスの夏休み

山の上にある町

 藤沢に来て先ずは、聖園女学院の近辺を歩きながら、新しい生活環境を調べることにした。その時、私の目を引いたのは白旗の住宅地から見える校舎であった。「流石、カトリック学校」と、イエスの有名な言葉を実現した眺めだと思った―「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイによる福音書5章14節。)看板に「みその」のふりがなが加えられたことに納得ができた。多少目立って、聖園の存在を積極的にアピールする狙いが籠められているという印象を受けた。

 私が(学生、そして教員として)38年通っていた南山大学にも同じような風景がある。北から山手通りを登って行けば、名古屋大学を見下ろすA棟の上に「南山大学」という看板が見える(ふりがななし)。やはりトップにいるという立地条件を活用しなければならない。

 ところで、問題点もある。具体例はヨーロッパ研修旅行でギリシアのアテネを見学したときのある学生の一言である。バスからかの有名なアクロポリスを見上げて「今から何をするのですか」という質問に対して「登るよ」と元気よくアナウンスしたら、学生はもう一度この貴重な世界遺産を見上げて「やめた」と言って、バスに残った。

 古代ギリシアからまた藤沢に戻ろう。いつか友人が教えてくれた小林一茶の詩が聞こえてくる気がする。

悠然として 山を見る 蛙かな

 遠くから見られるだけでなく、「登ってみたい町」として今でも慕われている「みその台」を毎日のように登って行くことを積極的に(「継続は力なり」)受け入れても、悠然と見るだけで物事を完結できた蛙が羨ましい。

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