2018年3月アーカイブ - 聖園だより|聖園女学院中学校・高等学校

聖園女学院中・高等学校

聖園だより

「さくら」満開!

◎今週に入り暖かい日が続き、一気に満開です。

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花の季節到来!

3月は寒い日が多く聖園の丘も花の開花が遅れていました。

来週は、きれいな姿が見れそうです。

◎「コブシ」正門横。

IMG_0130.jpgIMG_0128.jpg◎来週、満開!「サクラ」

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校長の声『"What Knowledge Is of Most Worth?"』

 「如何なる知識が最も価値があるか。」これはイギリス哲学者ハーバート・スペンサーの著書、『教育論(知育・徳育・体育論)』の第1章のタイトルである。新しい学年の始まりに相応しい質問に聞こえるかもしれないが、この質問に含まれている重要な課題を見逃せば、かなり幅が狭い答えになる危険がある。卒業後のキャリアに役立つ知識・技能を習得することは不可欠であるが、学ぶ価値がある知識・技能を求める前にもう一つ、もっと重要な質問に気づく必要がある。習得しようとする知識・技能に意味を与える命、知識・技能が道具として支えている私達の"この命とは何か"、という質問である。

 この質問について考える手助けとして日本カトリック司教団が出版した『いのちへのまなざし』(【増補新版】、2017年)を勧めるが、今回は、聖書の多少謎めいた言葉を出発点とし、"命の大切さ"について考えてみる。箇所はヨハネによる福音、12章24節から25節。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 大学一年生を対象とする授業で取り上げた時、その大学生から実に正直な反応があった。「私はまだ、一粒のままでいたい。まだ他人のことまで考えられません。」「一粒の麦の話で、自分が死んだら次の生命につながるということは、若い人にはあまり考えてほしくないなと思いました。...若い人には懸命に生きてほしいと若い私も思います。」言うまでもなく、私みたいな人は若い世代に、このような話を聞かせることは本職である。

 人間の命は私達が「持つ」ことができる「物」ではない。むしろ、種のように、それを手放さないと、潜まれている可能性は展開できないのである。敢えて「物」のイメージでいうと、命は、神の道を歩みながら、バランスよく手で持つ神から預かった壊れやすい宝物である。いずれにしても、命と一緒に頂いた"この使命"を果たすために如何な知識が本当の価値があるのかを考えることは、命に眼差しを向ける教育の課題である。

K12.jpg1枚目(左上):いのちへのまなざしのカバー             

2枚目(右上):「一粒の麦」を引用する旧名古屋聖霊短期大学の記念碑

3枚目(下) :バランスよく互いの命を守る南山大学の応援団 KOALAS

「春」 出発!

先週と比べると一気に「春」が近づいてきました。

◎通称ネコヤナギ! 「エノコログサ」

ネコヤナギ2.jpg◎ルルド 鐘の音が聞こえてきそうです。「アセビ」

アセビ.jpg◎管理棟への階段横 満開です。「アンズ」

IMG_0068.jpg◎アンズの木に今年初めての「メジロ」がやって来ました。

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花の季節が参りました。

今年は、寒い日が長く続きましたが、これから暖かくなるようです。聖園の丘にも「鮮やか色」がちらほら!

◎「モモ」これからが見どころです。

モモ18.jpg◎「西洋タンポポ」

IMG_0009.jpg◎「ジンチョウゲ」

シャクヤク18.jpg◎「クロッカス」

クロッカス.jpg

校長の声『昔話』

 昔話と言えば概ね、お年寄りが自分の経験と得意な知識を、興味も関係もない若い人に押しつける一方的なおしゃべりだという印象をうけるが、今回の「校長の声」は正にこのような昔話になると警告して、本論に入る。

 死語とも言われているラテン語は、毎日全世界のカトリック教会のミサで生きていた言葉であったということは昔話のように聞こえるかもしれないが、教会の典礼が各国の言葉で行われるようになってからまだ55年しか経っていない。この改革をもたらしたのは第二バチカン公会議(1962-1965)であったが、変わったのは言語だけではなく、典礼に使われているテキストにも変化が見られる。個人的に気になるのはレクイエム(死者のためのミサ)から姿を消した"Dies Irae, Dies Illa" (「怒りの日」)、福音朗読の前に歌われた、最後の審判を劇的に描くセクエンツィア(続唱)である。

 気になる理由は音楽である。このテキストは今でもレクイエムのいくつかの名曲(モーツァルト、ヴェルディ、ベルリオーズ)の中で生き続けていて、人を感動させているのである。しかも、「怒りの日」のグレゴリオ聖歌のメロディは、レクイエムと全く関係ない曲にもよく使われている。例えば、ベルリオーズの幻想交響曲に登場するタイミングはこの曲の不思議な雰囲気を醸し出す一つの要因なのである。

 ところで、一つのメロディの使用は決して一方通行ではない。アニマルズのヒット曲「朝日のあたる家」(元々アメリカ合衆国のフォーク・ソング)のメロディに予想しなかったところで出合った。会議のために滞在していたブラジルの町でミサ曲の一部に使われていた。もっと昔の話になるが、ポップソングのメロディがミサ曲になる例は数多くある。有名なのは15世紀のジョスカン・デ・プレのミサ曲「武装した人」である。そしてバッハのマタイ受難曲で大事な場面をマークする聖歌、"O Haupt voll Blut und Wunden"、「おお、血と涙にまみれた御頭よ!」のメロディは元々憧れの女性を慕う恋の歌であった。

 今年の3月25日からの一週間を教会はイエスの死と復活を記念する「聖週間」として祝う。2000年前の出来事が単なる「昔話」で終わらない、私達に話しかける生きている物語になるために、それを記念する典礼の厳粛な伝統を親しみやすいポップソングのメロディで歌うことも必要であると思う。人類のために死の苦しみを受けてくださった神の子イエスに心に訴える新しいlove songを歌うことは各時代の課題となっているからである。

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1枚目:"Dies Irae, Dies Illa"のグレゴリオ聖歌のメロディ

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2枚目:"L'homme armé"「武装した人」のメロディ

K11-3.jpg3枚目:毎年の10月に南山大学のパッヘスクエアで行われる野外宗教劇『受難』も

このようなlove songの具体例であろう。

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