校長の声アーカイブ - 聖園だより|聖園女学院中学校・高等学校

聖園女学院中・高等学校

聖園だより

校長の声『真実』

 生徒と先生が心を込めて真実を追究することは教育の基盤となっているが、このような正しい姿勢に多少疑問をかける名言はある。

"Never let the truth get in the way of a good story."

「真実は面白いストーリーの邪魔になってはいけない。」

 嘘つきを美化するように聞こえるかもしれないが、真実と合わない部分を含むフィクションは、私達を楽しませるストーリーとしてそれなりの意義があると言える。フィクションは真実を否定するよりも、真実の目に見えない別の側面を示しているのである。しかし、私達を楽しませるストーリーにはやはり取りあげにくい真実がある。

「何事にも時があり

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時」

(旧約聖書、コヘレトの言葉3章1節~2節)

 生死の真実をありのままで投げつける言葉なので、「続きはもう聞きたくない」というつぶやきは自然の反応かもしれないが、このような厳しい話が記されているのは聖書だけではない。

生者必滅 会者定離 (しょうじゃひつめつ えしゃじょうり)

 優しい言葉に包むことができない真実をこのままで受け入れることは避けられないが、受け入れてももう一歩先に進むのはある祈りの言葉である。

この人生はたった一度限りの旅だと思うから、

私にできるよいこと、私が友にしてあげられる親切なら、

どんなことでも、今させてください。

再び引き返してくることがないのなら、

先延ばしたり、なおざりにしたくはないのです。

(スティーブン・グレレット)

 コヘレトの言葉、そして「生者必滅会者定離」は人生の否定できない真実を語っているが、この厳しい真実を受け止めて、意義がある良いストーリーに変える力はこの祈りの言葉にあるのではないか、と私は思う。良いストーリーの邪魔になるのは(人間が変えることのできない)真実ではなく、自分の物の見方かもしれない。

 猛鳥の目が向いているのは浜を歩いている小鳥(或いは海岸でバーベキューをやっている家族のソーセージ)なのか、それとも海と江ノ島の荘厳な風景なのか。写真が伝えている真実をどう読むかによって大分違うストーリーになるのである。

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校長の声『火山』

 日本の万の神々ほどの数ではないが、古代ローマ帝国にも色々な神がいて、それぞれの役割と性格について興味深い神話がある。そのうちの一人はVulcanus(ウルカヌス)という神であるが、彼は火の神である。たっぷり炎と煙の出る鍛冶の仕事場は、彼の名前にちなんで英語で"volcano"となっている。火山の噴火の原因は神の働きであると信じられていたので、被害に遭わないためにVulcanusをなだめる祭儀を防災対策と見なすこともできるかもしれない。

 『もののけ姫』に登場する祟り神と共通点があるようだが、日本の火山の動きは自然現象と見なされているというのが、私の印象である。しかし、どちらにしても、その壮大な風景を遠くから見て楽しんだ方が安全であろう。

 距離を置いて火山を眺めているからこそ、全体像と一緒に、色々な側面が見えてくる。具体例は軽井沢から見える浅間山である。旧碓氷峠の展望台(サンセットポイント)から間近に感じる荘厳さと、矢ケ崎公園の池で(離山の後ろに)映っている優しさは同じ浅間山のイメージである。

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 コロナウイルスの対策に欠かせないsocial distancing(社会距離拡大戦略)にも似たような効果がある気がする。感染拡大防止に欠かせない距離を保つことは、一緒に生活している人を新しい観点から見て、もっと深く理解できる機会にもなり得る。

 人となり、十字架に付けられて死んだナザレのイエスは祟り神にならないで、距離を保ちながら今でも人の心に話しかけてくださることによって我々人間が神の恵みの多様な側面を安心して拝見し、受け止めることができる。良い天気に恵まれて浅間山(8月27日現在の火口周辺警報:噴火警戒レベル2、火口周辺規制)の風景を楽しめたことも感謝している。

校長の声 ― 静修の日に寄せて ―

LEARNING FROM SILENCE

 皆さん、ごきげんよう。

 例年より少し短い夏休みが終わり、今日からまた普通の毎日・普通の学校生活に戻りますが、「普通」とは言っても、やはり、皆さんもずっと実施してきた、新しい生活様式の「普通」です。一つの具体例は今日の「静修の日」です。年間行事の予定表には「静修の日・ミサ」と書いてありましたが、コロナウイルス対策の一環として、講堂で皆さんと一緒に祈ることは出来なくなったのです。

 このような、あれもこれも出来ない状況ですが、学校生活で一番重要な活動はこの新しい生活様式の中でも出来ます ー 学ぶことです。学ぶことが出来る場は沢山ありますし、そして学び方になると個人差もありますが、聖園の学校生活に欠かせない三つの学び場について話して、皆さんに再確認していただきたいと思います。

 一つ目は授業の前で友達と話して、色々分かち合って「友達から学ぶ場」です。二つ目は授業で先生の話を聞いて学ぶ場です。そして三つ目は最初の二つの間にある「黙想の時間」で、静けさから学ぶ場です。友達から学ぶこと、そして先生から学ぶことについて皆さんはもう十分分かっていますが、「静けさから学ぶ」ことについて説明し、皆さんを少しだけ考えさせたいと思います。

 学び場となっている「静けさ」とは何でしょうか。簡単に言えば、静けさは何も聞こえてこない状態でしょう。例えば、聴力検査の時に、いろんな雑音を完全に閉め出す、シャットアウトする狭い空間に閉じ込められます。その時に何が聞こえてくるかというと、聴力検査に使われている音ですが、不思議なことに自分の心臓の脈拍も聞こえてくるのです。

 このような静けさを朝の教室で確保することは無理ですが、静修の静けさはこのような物理的な「雑音のない状態」だけではありません。むしろ、毎朝、黙想の時に、自分の心の耳を開くことはポイントです。静かになって、心の耳を開いている時に何が聞こえてくるのでしょうか。神様の声も聞こえてくるかもしれませんが、その前に先ず自分のことが聞こえてくることは重要です。つまり、静かになって心の耳を開くことは気づきの場となります ー 普段の自分、そして普段と違う自分に気づくチャンスです。今のありのままの自分なので、自分の欠点にも気づくことになります。このところは聴力検査に似ています。前回の検査と比べて聴力は少し落ちてしまった、と分かるのです。

 次のステップは静けさから学ぶことの目的です。今の、ありのままの自分に気づいて、この自分を受け入れることはその第一歩ですが、ここは止まってしまう場ではありません。むしろ、今の、ありのままの自分の足りないところを確認して、また踏み出して、先に進むことが黙想の目的です。心の静けさの中で自分のことについて学び、もっと自分らしい自分に変わり、成長するチャンスを与えるのは、毎日の黙想の静けさです。

 当然ですが、心の耳を塞いで何も聞こえないようにすることは、学びに繋ぐ本当の静けさにはなりません。

 皆さん、今日からまた友達から、先生から、そして黙想時間の静けさから積極的に学んでください。特にlearning from silence、静けさから学ぶことは「新しい生活様式」を支えることになると思います。
 音・音楽・言葉で言い表せないメッセージが皆さんの心に響いてくるようにお祈りします。

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校長の声『傘』

 雨の日の卒業式。

 講堂を出る卒業生の写真は建物の二階から撮られているから、色とりどりの傘しか見えない。(1)青空の下で「卒業した!」という嬉しさをカメラで撮ることは出来ないが、この写真は卒業生に相応しい姿を示している気がする。学校で友達と一緒に学んだことは、新しい道に踏み出す自分を守る傘となっていると実感できる時である。そして、友達と一緒に同じ教室、同じ先生に教えてもらったのに、それぞれ違う人間に成長してきたことの象徴は皆が持っている傘である。(無論、「準備万全」は過大評価であろう。傘の準備ができて「雨にも負けず」とは言えるが、強い風になると別な対策が必要である。)

 雨と太陽の光から自分を守ってくださる傘の役割を別なイメージで示しているのは聖母マリアが広げるマント、袖のない外套である。(2)余裕があるから裾を広げてくださるという意見もあろうが、言うまでもなく、これは聖母に相応しい発想ではない。持っているマントは自分を守るためのものだと思わないで、多くの人を助けるために広げてあげたいという優しい心遣いが伝わってくる。

 ドイツのカトリック聖歌には「マリア様、マントを広げてください」という歌がある。(3)心を一つにして聖母の保護を願う歌ではあるが、一緒に祈ってマントの下で守られているのは文化、言語、人種、教育がそれぞれ違う人間である。

 三密を避けるために当面の間多少大きめの傘を共有することは「×」であるが、皆同じ防備対策という傘の下で集まって活動すれば、多様性に満ちた人間社会(そして自然界)を保つことが出来る。祈りだけで解決できる問題ではないが、心を一つにして祈ることは第一歩になるのではないか、と私は思うが。

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(1) 南山高等学校女子部

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(2) ドイツの神言会ザンクト・ヴェンデル修道院の聖堂のマリア絵。

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(3) "Maria breit den Mantel aus"

校長の声 ― 前期終業に寄せて ―

ごきげんよう 校長のミカエル・カルマノです。

 皆さんは、新型コロナウイルス感染症が収まらない中で、長期の自宅学習、オンライン授業、そして新しい生活様式のもとでの学校生活など、大変な努力をされました。

 この異例づくめの前期を振り返って、明日から夏休みとなる皆さんに一つの祈りを紹介したいと思います。

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed, and the Wisdom to distinguish the one from the other.

 神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

 変えることのできなかったこと、そして今も変えることができないことは、感染拡大防止のための新しい生活様式、すなわち三密を避けること、マスク着用、手洗い、放課後活動の当面のお休み、学校行事の中止です。

 引き続き、夏休みの間も、皆さんにこの状況を冷静に受け入れる忍耐力をくださるように神様に私は祈ります。

 ところで、忍耐と我慢を必要とする時間はまだ暫く続きます。夏休みが終わっても、聖園祭、現地研修など出来ない学校行事はたいへん多く、部活も当分の間は出来ません。自分と友達を守るためにです。

 一方で、変えることができるものもあります。自分自身と自分の考え方・ものの見方です。厳しい状況だからこそ、自分を変えることによって世界を変えることは出来るのです。そのための勇気を皆さんが見つけることができるように私は祈ります。

 しかし、忍耐力と勇気だけでは足りません。忍耐力と勇気をきちんと使い分ける知恵も必要です。神がくださる賜物であるこの知恵が皆さんの心に届くように私は祈ります。

 勿論、祈るだけでは不十分です。次のことを皆さんの夏休みの宿題にしたいと思います。それは、皆さんが持っている忍耐力と勇気を正しく使い分ける知恵を得ることです。そのためには、目の前の学習に集中することはもとより、積極的に家の手伝いを毎日すること、得意なことに磨きをかけること、それらの中で気づいたことを書いたり、家族に話したりすることがとても良い。我慢するだけではなく、勇気を持って自分をもっと自分らしい自分に変えてみてください。

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校長の声『Do No Harm』

 前回の『校長の声』でアダムとエバが楽園から追放されたことは話題に上がっていたが、この事件の発端は(禁断の果実を食べるように)エバを誘惑した蛇のいたずらである。その結果、「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる。お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる。」(創世記3章14節)と、神に罰せられた蛇は、病や死をもたらす悪者のシンボルとなってしまったが、WHO、世界保健機関のロゴマークを見ると、蛇は人々の健康維持に貢献する医療のシンボルともなっていることが分かる。杖に巻き付いている蛇は元々ギリシア神話に登場する名医であるアスクレピオスという神の象徴である。

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 医者の倫理を表す「ヒポクラテスの誓い」には"Do No Harm"、「害を与えてはならない」という言葉が含まれているが、考えてみれば、これは医者に限ることではない。自分の言動が他の人に悪影響を与えないように勤めることは同じ空間で生活している人間の共通課題である。

 エバのように「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」(同上13節)と、蛇を悪者としようとすることは責任逃れである。(この観点から見れば「雌鶏歌えば家滅ぶ」ということわざもかなり怪しい。)コロナウイルスの感染拡大を人のセイにしないで、毎朝"Do No Harm"と自分に言い聞かせて、マスクを着用することは、しばらくの間、新しい生活様式に欠かせないことであろう。

K40-2.png 蛇足にはなるが、ドイツの実家の近くにはSchlangenbad(シュランゲンバート=「蛇泉」)という町がある。治療に有効な温泉で知られているこの町のロゴマークはドイツでここしか生存しないクスシヘビであるが、この蛇は上記のギリシア神話の神、アスクレピオスのシンボルである。バイパスの道路には昔から蛇のイラストに"ungiftige kreuzen"と書いてあるサインがある:「毒蛇でない蛇の横断注意」、と。私は何回もそこを通ったが、未だに蛇が横断するのを見たことはない。

校長の声『刺のない薔薇』

K39-1.png みその台の広いキャンパスで咲いているのは久しぶりに登校してくる元気な聖園生だけではない。今年1月17日付の『校長の声』で紹介した庭"Kleines Glück"は何種類もの綺麗なバラがちょうど満開である。見たり写真を撮ったりしている時にふっとドイツのある歌が頭に浮かんできた、ゲーテの詩で有名な「野バラ」。「バラ」と言えば、「トゲ」もつきものである。

 4世紀頃活躍していた有名な教会博士、聖アンブロジウスの話によれば、バラは元々トゲがなかった。アダムとエヴァが神の命令に背いてエデンの園から追放された時、バラにトゲがつくようになり、人間の目を楽しませてくれた美しい花は、人間の罪のために人を刺すようになった。なんとなく納得がいく話であるが、この「触るな」と脅かしている美しいバラは早い段階からイエスの母となった聖母マリアの一つの象徴として使われてきた。しかし、このバラは手に傷をつける悪者ではなく、トゲのない"Rosa Mystica"、「奇しき薔薇」として(罪のない)聖母マリアを表すシンボルである。

 コロナウイルス対策で今年は出来なかったが、生徒は毎年5月(そして10月)朝礼の時に「ロザリオの祈り」を唱える。トゲがない慈しみで人類を見守ってくださる聖母マリアを記念する祈りである。普段、学校説明会の時にロザリオ作りが体験できるコーナーがあるが、感染防止のために、オンライン教育の一環として当面インターネットでロザリオ作りの動画を提供しているのである。*1

K39-2.png 自然界(そして人間)には美しさと共に必ず痛ましさがあるが、トゲのない美しさは私達人間にとっていつまでも消えない夢である。両方の象徴はバラの花である。事実だけで満足しないで、意味を求める人間にとって矛盾だらけの現実を受け入れるためにバラのようなシンボルは必要かもしれない。

 先行きが分からなくなった時には、可愛い子羊のように、聖母マリアの足にすがりつきたくなるのは人間かな。

 

 

*1 Youtube「聖園女学院 ロザリオの作り方」: https://youtu.be/JJmDX0Db84A

校長の声『記念日』

 法律で定められている16の「国民の祝日」のうちの2つ、2月11日の「建国記念の日」と5月3日の「憲法記念日」は「記念日」となっている。記念されている出来事は神話と史実、かなり対照的な内容となっているが、あのとき何か大事なことが始まったということは共通点である。そのため毎年それなりの行事が開催されているが、殆どの人にとってこのような「祝日」(例えばゴールデンウィークを構成する「憲法記念日」)は単なる「休日」になっているのではないか、という印象をうける。言うまでもなく、これは日本だけで見られる現象ではない。12月頃に見られるクリスマスツリーやサンタクロースと、イエスの誕生を記念する降誕祭とはどういう関係があるかは必ずしもはっきりしているわけではない。

 前置き少し長くなったが、今年注目して欲しい2つの記念日を紹介する。5月30日は(聖園女学院の設立母体である)聖心の布教姉妹会の創立百周年記念日、そして5月8日は75年前、第二次世界大戦でドイツが降伏した日である。(ドイツの首都ベルリンで、今年に限って、5月8日は"Tag der Befreiung"(ナチ政権からの)「解放の日」として特別な祝日となっていた。)

 最初に指摘した「祝日」と「休日」の問題に戻る。今、聖園女学院に通っている生徒にとって100年前の出来事は「関係ない話」に聞こえるかもしれないし、第二次世界大戦終了後に生まれた人にとって、75年前にドイツの敗北で終わった戦争は歴史の授業で学んだ史実だけであって、個人的に「関係ない話」になってしまう可能性はある。しかし、直接的に関係のないと見なされている出来事は、意識されなくても、生活環境に形を与える伝統となっていることを見逃してはいけない。この伝統と自分自身の関係を確認するよう呼びかけているのは毎年の記念日である。

 言うまでもなく、記念されている出来事は必ずしも全て良いものとして受け継ぐ内容ではないが、共通の課題はある。この伝統はどのように自分と繋がっているか、そして自分にどのような言動を求めているかを真剣に考えるという課題である。5月30日と5月8日はそれぞれの違う課題の具体例となっている。

 聖心の布教姉妹会、そして南山学園の創立者であるライネルス師が残した「一人の存在は必ず一つの貴い使命をもっている」は今でも聖園女学院の教育理念を総括する言葉であり、教員と生徒が共に取り組む目標である。ドイツの敗北で明らかになった強制収容所と600万人のユダヤ人の虐殺は、このようは非人間的な行動をもう一度犯さないように、注意と反省を促している。どちらでも「関係ない話」として無視できる内容ではない。

 休日となっているからこそ、記念日はチャンスである。歴史を振り返ることを通して現在を見極め、そして新しい未来を考えるチャンス。というのは、私達は伝統を受け継ぐだけではない。私達はそれと同時に次世代の人々を悩ませる、或いは慰める伝統を造っているのである。良い部分を引き渡すこと、そして世界平和の鐘を鳴らし続けて、悪い部分が絶対に再発させないことは、私達が共有する使命、生まれた時、命と一緒に与えられた使命である。

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① ヨセフ・ライネルス師

② 世界平和の鐘 ベルリン市内のフリードリヒスハイン公園

③ 虐殺されたヨーロッパのユダヤ人(ホロコースト)のための記念碑(ベルリン、ブランデンブルク門南側)

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学校長より在校生にメッセージ

「お守り」

 入試説明会で聖園女学院が受験生に提供しているアトラクションはロザリオ作りである。仏教の数珠と同様、元々祈る時に使うアクセサリーだが、受験勉強を支える「お守り」にもなる、と担当する先生と生徒が丁寧に教えてあげる。入学して聖園生になったら、今度はチャペルを訪問する時に聖母マリアのメダイを貰う。鞄に収めておけば、自分の学校生活と学習のお守りになる。

 ところで、このようなお守りには注意すべき側面がある。自分と隣人の安全に気を遣うことは前提条件となっている。自動車にメダイをかけても、守護の天使はスピード違反する時に飛び出すと、私は若い時から何回も聞かされた。

 私達を見守ってくださる神力のシンボルはメダイとロザリオだけではない。聖園女学院の校内においてあるイエスや聖母の像も同じ役割を担っている。管理棟の玄関にある聖母マリアと幼子イエスの像は「聖園坂を登ってこられてご苦労様でした」と、入ってくる人を歓迎してくださる。

 3月2日から学校閉鎖が続くなかで訪れてくる人の数はかなり少なくなってきたが、伝えているメッセージはメダイとロザリオと同じ内容である。コロナウイルス感染から自分と隣人を守ることになると、神様への丸投げは駄目、と。第一歩は先ず自分にできることやることから始まる。例えばマスクの着用や、(登校出来なくても)先生からオンラインでうける指導を活用して勉強に励むことである。私達のこの地味な努力を幼子イエスと共にマスクを着用している聖母マリアは見守ってくださるのである。

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(画:高2 大井美空)

校長の声『神の恵み』

 2018514日の校長の声『早起きは三文の得』*1では「愛人如己」という、「愛の掟」を表す四字熟語を紹介したが、今回はこの掟と「神の恵み」との関係について話すことにした。何故かというと、聖書の中で1番重要な「愛の掟」は決して一方的な命令ではなく、「神の恵み」とワンセットとなっているからである。つまり、愛の実施に欠かせないのは神の恵みである。

 ところで、この恵みはどういう形で私達に届くかを予測するのは極めて難しい。必要に応じて私達が注文できるものではない。むしろ、聖書が語る神の恵みの話を聞いて「えっ?」という反応も十分あり得る。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という、イエスの厳しい要求に続く説明は1つの具体例となる。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」*2

 分け隔て無く全ての人をご覧になるのは流石に神の働きではあるが、ホワイトクリスマスに欠かせない雪を、今年満開の桜、そして聖園の庭で春を待っていたイースターバニーに降らせてくださったことに感謝の気持ちを直に現すのはそう簡単にできることではないであろう。

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 やはり、神の恵みが色々な形で私達の所に訪れてくることに気づくためには(昨年から聖園女学院の方針を表すキーワードに含まれている)「見つける力」は必要である。

 雪の中で寒い思いしている桜とイースターバニー、そしてコロナウイルスの対応で悩んでいる私達にこの見つける力は既に供えられているに違いないけれど、私達がそれに気づくことこそ神の恵みだ、と私は思う。

*1 https://www.misono.jp/news/2018/05/post-286.html

*2 マタイによる福音5章44節~45節

校長の声『2020年3月3日(火) 聖園女学院高等学校卒業式 餞の言葉』

 卒業証書を授与された皆様、おめでとうございます。普通の卒業式とかなり違う式になりましたが、少しだけ、「卒業」について私の考えを皆さんに紹介することにしました。

 「卒業」という意味で使われている英語の言葉には2つあります。一つは"graduation"です。これは、やるべきことを全て成し遂げて、目の前にある階段を上って卒業証書を受け取ることです。長い人生のシンボルである階段なので、辿り着いたところは目的地ではありません。もう一つの言葉は"commencement"です。これは、今日から今までと大分違う、新しい活動が始まる、という意味です。

 皆さんは入学してから聖園の学習コースを走ってきたので、次のステップに踏み出し、新しい方向に歩み始める準備は出来ましたが、皆さんが力を入れてきた勉強の全ては「これで終わり」ということではありません。むしろ、卒業は生涯学習の継続を促す区切りだと考えてください。

 言うまでも無く、卒業で終わることもあります。聖園を離れるので、6年間登ってきた聖園坂は楽な下り坂になります。しかし、これは今日、一回だけのことですし、この先には多分また沢山の険しい上り坂があるでしょう。しかも、皆さんが今後進むコースは聖園の先生が示す決まったコースではありません。自分で考えて、自分で選ぶコースです。歩んできた聖園の道と大分違うコースにはなるかもしれませんが、その違いを端的に表しているのは6年間の学校生活の枠組となっていた学則のルールと、皆さんが着装した制服ではないか、と私は思います。皆さんは聖園の学則と制服で決められた学校生活を後にして、聖園から離れていくのです。

 卒業する皆さんのことを考えて、私の頭には一つのイメージが浮かんできました。皆さんは毛虫から綺麗な蝶々に脱皮します、と。制服を脱皮して本当の自分、本物の美しい自分へ成長するのです。しかし、graduation、そしてcommencementの卒業だからこそ、新たな課題も見えてきます。聖園の枠組みを離れて行く皆さんは、今後自分の姿と言動に関して自己責任を問われることになるのです。羽を広げて飛んでいく皆さんですが、どういう目標を目指して先に進むかを自分で判断しなければならないのです。この課題に取り組む為に、聖園で学んだことの証拠となる卒業証書と一緒に、嬉しい時・辛い時の想い出、そして一緒に勉強した友達との絆を持ち帰ってください。

 ところで、皆さんが卒業してからも聖園に残る、大切なものがあります。皆さんを教えた先生、そして聖園の制服を着て毎日聖園坂を登ってくる後輩の心には、皆さんのメモリーは残っているのです。皆さんは聖園女学院の一部となっていると言っても過言ではないと思います。皆さんが一生懸命活動していた場だからこそ、蛙の観点から見ても、富士山と一緒に聖園女学院は悠然として見えてくるのです。

 最後になりますが、心を繋ぐ思い出があるからこそ、聖園は皆さんにとっていつでも戻れる場となることを祈って、餞の言葉にします。

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校長の声『地の塩、世の光』

 聖園生が朝礼の時に歌う聖歌の1フレーズ、「地の塩、世の光」の元はイエスの有名な言葉である。

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」(マタイによる福音書5章13節~15節)

 味付けと保存に使われているもの、夜の暮らしを明るくするものとして塩と光は、日常生活に欠かせないが必ずしも都合良く使える道具ではない。調味料には減塩のものが多くあるし、そして対向車のヘッドライトは眩しくて先が見えなくなることもある。これを考えれば、地の塩・世の光と名付けられた弟子達に、イエスが与えた役割は人々の日常生活を楽にすることに限られているわけではない。血圧をあげる塩なので、自分の弱いところ、足りないところに気づくように促している。そして誰も見たくない、認めたくないところに光を当てることによって、自分と世界がおかれている現実をもっと真剣に受け止め、その改善に力を入れることが求められている。

 塩と光は日常生活に欠かせないものの具体例であると同時に、人間社会に価値があるものとは何かについて考えさせ、人の使命を表す象徴でもある。この使命を果たす時に、場合によって、「ありがたい迷惑」にならなければならない覚悟も必要かもしれないが。

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追想 汐の上に見える太陽、雲の間から差し込む日蝕の光は人生の味付けにもなるのかな。

校長の声『"Lucky"と"Happy"』

K34-1.png 南山学園の創立者であるライネルス師を意識して選んだ名称ではないと思うが、藤沢市の学校花だんコンクール①で表彰された聖園女学院の庭は「クライネス・グルーク」"Kleines Glück"と名付けられた。標識には「ドイツ語で、小さな幸せという意味です。」という、丁寧な解釈が記されている。

 ドイツ語を母語とする私なので、"Kleines Glück"の翻訳で相談を受けて「小さな幸せ」になったが、時間が経つにつれて多少違和感を覚えるようになった。何故かというと、"Glück"と言う名詞は「幸せ」と一緒に「幸運」という意味にもなっているからである。

 初詣の時に買ったおみくじが「大吉」であれば、これは幸運、「ラッキー」に違いないし、その時「ハッピー」、幸せな気分になるのは人間らしい反応であろうが、このような幸運を幸せの要因と見なせば、幸せの範囲はかなり狭くなる危険があるように思われる。

 クライネス・グルークが藤沢市に注目されたことは嬉しいが、「入り口は、こちらからです→」という、幸せへの道案内として表彰されたことは不十分であろう。本当の幸せは(例えば)庭の維持にかけ続けてきた努力の中で見つけるものであって、「このような努力から生まれた幸せには必ずいろいろな形の幸運がついてくる。」と私は思う。

 「小さなことでもいいから、今年もこのような幸せと幸運を多くの人と分かち合うことができれば」と私は祈っている。

①聖園女学院中学校・高等学校ホームページ 聖園だより『学校花だんコンクール 表彰式』

校長の声『宿屋には彼らの泊まる場所がなかった...』

 台風19号の時のことである。藤沢市から警戒レベル4の避難勧告が発令され、ご自宅が安全に泊まれる場所ではなくなった210名の方(そして犬4匹)は聖園女学院のマリアホールで一晩を過ごした。聖園女学院は藤沢市指定の避難場所なので、地域の住民が泊まる場所を見つけるのはそれほど難しいことではなかったが、おおよそ2000年前、宿屋には泊まる場所がなかったので、イエスが生まれた馬小屋は避難所となっていたのである。

 日本の年間行事にも定着したクリスマスの祝いは確かにお偉い方の誕生に相応しいイベントとなっている。しかし、平和な世界の象徴となっている可愛い幼子と天使、心に響くキャロル、美味しいケーキ、綺麗なイルミネーション、そして子供にあげるプレゼントは最初のクリスマスの現実とはかなりかけ離れている。予約しなかった客を断ることぐらいであればまだ理解できるが、ひょっとすると宿屋の主人は「これは問題になりそうなお客さんかな」という印象を受けて「場所がない」と嘘をついていたかもしれない。

 どちらにしても、結果としてイエスは馬小屋で生まれたが、その現場のイメージとなっている「馬小屋」になると、また大きな違いが見えてくる。幼子イエスから羊飼いたちまで、皆宮殿に相応しい、立派な服装をまとっている馬小屋もあれば、紙から出来た小さな立像が段ボール箱の中に置かれている、対照的なものもある。

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 裕福な社会なのに路上生活を続けざるを得ない人がいるという状況を考えれば、段ボール箱の馬小屋は当時の現実に近いであろうが、やはり疑問は残る。宿屋を断られた時に神の子は何故もっと相応しい対策を取らなかったのか。例えば(水戸黄門シリーズの最後の場面のように)自分の実態を明かす。「この紋所が目に入らぬか!」と。

 イエスが亡くなられたゴルゴタの丘の十字架も神の子に相応しいと言える場所ではなかったと言いたくなるが、この十字架こそイエスが世界の人々に示した紋所となっている。

 聖園女学院は今年、段ボールから出来た馬小屋を用意して、(路上生活者の段ボール箱と犯罪人の十字架との間を)我々人間と一緒に歩んでくださった神の子を歓迎する準備に取りかかっている。

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校長の声『可愛い子には旅をさせよ』

 最近、ある航空会社から次のような電子メールの広告が届いた。

"Let the world change you"

「世界を見て 自分を変えませんか」

 いくつかの景色が美しい観光地は紹介されたが、言うまでも無く歩いて行ける距離の所ではなかった。

 自分の海外出張の経験を振り返って、多少疑問を感じた。より多くのお客さんに航空券を買ってもらう狙いはあまり問題にはならないが"世界を見て自分の何が変わるのであろうか"と。

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 テーマパークを連想させる、ある大学のキャンパスを訪れてや、可愛い動物との出会いがあっても、写真を撮ることだけで終わるのではないか。

 聖園女学院の留学企画に参加して帰ってくる聖園生であれば、彼女たちの言動には確かに変化が見られる。自分が慣れた環境と大分(全く?)違う所での経験は、自分自身、そして世界を別な観点から理解できることに繋がる。

 しかし、これで可愛い子の旅は終わってはいけないと私は思う。自分が見ている世界を変えてみるという、次のステップに踏み出すことこそ、このような経験の本来の目的である。演劇の演出家であるAugusto Boalはこれを簡潔にまとめている:"We are all actors: being a citizen is not living in society, it is changing it."社会に生きている私達は単なる芝居をする"actor"役者ではなく、社会を変えるために"act"行動を起こす"actor"である。

 アジア地区カトリック大学の会議の送別会に優雅な着物の姿で登場した学生は、前の日の発表の時に同じ主張しているように見えた。写真と同様、意思表示は多少ぼけていたかもしれないが、メッセージははっきりしていた。

"Youth Can Make a Difference"

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 考えてみれば、国際会議に参加しなくても出来ることは沢山ある。聖園女学院の豊かな自然環境を可愛い花で飾る美化委員会の生徒は良い具体例である。

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校長の声『ご覧よ空の鳥』

 カトリック教会の典礼聖歌391番「ご覧よ空の鳥」(菅野淳作詞、新垣壬敏作曲)に使われている聖書の箇所は、マタイによる福音6章26節である。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」天地の創造主である神の優しさを描いている、分かりやすいイメージではあるが、この続き(「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」)は、大分前から気になっていた。空の鳥と我々人間は、このように比較できる存在であろうか、と。しかし、最近のある出来事を振り返って、これは人類と鳥類の上下関係の問題ではないと、私は考えるようになった。

 10月7日、朝礼の時、講堂に迷い込んでしまった小鳥は、出られなくなった。諦めた顔で椅子に座って、逃げようともしなかった。手に取っても抵抗しないし、そして外に運んでも飛び立たとうともしなかったので、箱に入れて布で覆って保護することにした。しばらくして、この布を取れば、バタバタと羽を動かして箱から出ようとしたので、箱を外に出して開けたら元気よく飛び立った。

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 三つのことを教えさせられた気がする。一つは、鳥と人間の価値差の問題である。空の鳥を優しく見守るのは、天の父だけではない。我々人間にも全ての生き物の命を支える環境保護の責任がある。

 二つ目は、箱に閉じ込められた小鳥を見て連想したことであるが、自分の中に閉じ込められている我々を拾って放ってくださる(目に見えない)力があるからこそ、我々はもっと広い世界に飛び立つことが出来る。捕まえられたからこそ、自分の力で得られない解放を味わうことが出来る。

 三つ目は教員である私に対する注意事項。小さくて可愛い生き物であれば何かをやってあげたい気持ちにはなるが、小鳥のためを思えば、それをやってあげ続けてはいけない。大人の目で見れば弱さが目立つかもしれないが、「踏み出す人に」になれるために思い切って手放す時期は必ず来る。

飛び立つ小鳥の動画

校長の声『道標(みちしるべ)』

 知らない所を初めて訪れる時に私達が頼りにしているのは、整備された道の傍に立っている道路標識である。この標識を参考にしながら(場合によってその地方の住民に道案内をしていただきながら)道なりに進めば目的地に届くと信じて、私達は歩き続ける。疲れ始める私達をかなり親切に勇気づける標識もある。藤沢本町から聖園女学院へ、そして軽井沢から旧碓氷峠への歩道を案内する標識は具体例である。

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 碓氷峠への案内には面白い特徴がある。頂点までどのぐらい残っているかと一緒に、今まで登ってきた距離を知らせてくれるし、そして突然熊が出てくるかもしれないと注意を呼びかけている。言うまでもなく、聖園坂の途中で熊に出会う心配は不要である。

 道路と標識があるから予測できる範囲で動いているけれども、人生の旅路は必ずしも私達人間が作り上げたインフラ整備の内側を通るものではない。「先生、どこに泊まっておられるのですか」と聞いた二人の弟子にイエスは住所を教えないで、「来なさい。そうすれば分かる」と、付いてくるように勧めているだけである。(ヨハネによる福音1章38節~39節。)しかも、向こうから質問されなくても、イエスはいきなり「わたしに従いなさい」と話しかけることもある。(同上42節。)換言すれば、場合によってイエスは道も目的地も見えない状況の中で動く道標になる可能性がある。

 「旅は道連れ,世は情け」  誰かが先に立ってしっかりと歩いているからこそ、道が見えなくても付いていく勇気が出る。普段"Don't follow me, I'm lost too"(「後について来ないでください、私も迷っているよ。」)と言いたくなるであろうが、自分もいつか動く道標になる使命が廻ってくる覚悟も必要であろう。

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追伸

 ドイツのハイキングコースをマークする目印を見て考えた。選択肢が多いこともまた迷いの元、と。

人生の旅路もまた、然り。

校長の声『出発良し』

 確実な結果を残す学習の秘訣を「継続は力なり」という一言でまとめることが出来るが、持続可能な継続に必要な(夏休みという)休息の時間が終わり、9月から始まる後期の新しいスタートは、私達に何を求めているのか。二つの対照的なイメージで考えてみる。一つは運動場、もう一つは駅である。

 スターティングブロックで待ち構えて、ピストルの合図を待っている間に、余計な考え事を止めて心身共に集中することは不可欠である。例えば自分の足りないところを心配したり、或いは一緒に走っている人と、自分を比較したりすることは失敗の元である。むしろ、頭を空っぽにし、練習に力を入れたありのままの自分に集中して、勇気を持って踏み出せば、今まで知らなかった自分を見つけるチャンスがある。(ちなみに、聖園女学院が9月2日の「静修の日」を秋学期のスタートラインとしているのは、このような自己発見のためである。)そして満足できる結果が出なければ、また新しいスタートに向けて練習を重ねて、失敗を成功の元として活用すればよいのである。

 ところで、新しいスタートのもう一つのイメージは駅で電車の到着を待つことである。乗るだけで動き出せるので、楽だけれども、要注意。選ぶことが出来る行き先の範囲は狭くなるし、そして廃線になった駅でいくら待っていても電車は来ない。

 走る距離とスペードはそれぞれ違うであろうが、夏休みで蓄えた力を使って皆さんが「出発良し!」といいスタートを切ることが出来るように。

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校長の声『正解』

 分からないことがあれば、これに詳しい人に質問すれば答えが得られるが、質問する目的は必ずしも正解を教えてもらうことではない。先生に注目して欲しいとよく質問する生徒もいれば、生徒の理解を確かめるために口頭試問で難しい質問をする先生もいる。そして突然、とんでもない質問で相手を困らせることを楽しんでいる人もいる。ところで、このような意地悪な質問は直ぐに跳ね返ってくることがある。5月半ば頃アメリカで放送されたCBSの番組には、次のような場面があった。

 司会者のスティーヴン・コルベアがゲストの俳優キアヌ・リーヴスに投げかけた質問:"What do you think happens when we die, Keanu Reeves? " 「私達が死んだら何が起こると思いますか。」観客は予想外の質問で笑ったが、リーヴスの答えを聞いて一瞬で静かになった。"I know that the ones who love us will miss us." 「私は知っている。私達を愛している人は私達がいなくなったことを寂しく思うのです。」

 考える時間も与えないで、いきなり死後の世界や(キリスト教の教えである)復活について軽率な発言を誘う質問に聞こえるが、答えは全く別な方向に目を向けさせた。注目されているのは死んだ人の行き先ではなく、今生き(残っ)ている人の想いである。

 このやりとりを伝える記事を読んで、新約聖書のある話を思い出した。(マルコによる福音書1218節~27節。)自分が学んだことに自信満々の学者は一つの質問(亡くなった人の結婚生活は天国でどうなるのか)で死者の復活を教えていたイエスを困らせようとしたが、イエスは、丁寧な説明の最後に、死後の世界を注目する質問は的外れである指摘した。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 自分自身、そして愛する人の死に直面して、自然に「死んでからどうなるのか」という質問は浮かんでくる。必ず死で終わる人生なので、無視できることではないが、「死んでみないと分からない」という「正解」は必ずしも答えにはなっていない。視点を置き換えて「今生きている私達の命とは何か?」という質問であれば、一つの答えが見えてくる気がする。「『今』を生きてみないと分からない。」無論、実際にやってみないと「正解」にはならないが、教会のステンド・グラスや茶屋の掛け軸を見ながら黙想することはその第一歩になるかもしれない。

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校長の声『Spiritual Exercise』

 健康で幸せな人生に運動は欠かせないが、積極的に動かす必要があるのは体だけではない。心身共に元気な毎日を送るために心のエクササイズは不可欠であるが、各宗教の伝統的な儀式を参考にすればそれほど難しいことではない- 仏教の座禅、ヒンズー教のヨーガ、イエズス会(カトリック教会の修道会)の霊操(れいそう)は具体例である。特定の宗教を離れても、(流行のカタカナ語となっている)「スピリチュアリティ」という名称で精神的な安定を目指すエクササイズも数多くある。(宗教心理学の研究対象ともなっているが、字数の関係上ここで省く。)

 聖園女学院はカトリックの学校なので、毎日の黙祷のほかに生徒心身の成長を目指して、毎年7月に「錬成会」が実施されている。今年も中1から高2までの生徒は「愛の人・ド・ロ神父」というテーマで班に分けて一緒に学んだことを皆の前で発表したのである。その一週間前生徒・卒業生のお父さん達の第12回聖書合宿があったが、「歩く黙想」等で心も足も鍛えることができたと、好評だったのである。

 「星の王子さま」には次の言葉がある。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。一番大切なことは、目に見えない。」毎日聖園坂を登ってくると足は強くなるが、錬成会・聖書合宿の目的は心の目と耳を鍛えることである。足が丈夫な人はマラソンを完走できるが、鍛えられた目と耳とを使っての競争は別なところを目指す。

 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(使徒パウロのコリントの信徒への手紙一第9章24節~25節)

 錬成会・聖書合宿等の"Spiritual Exercise"、心を鍛えるエクササイズに力を入れることは聖園女学院の教育方針である。生徒(そして保護者)に目指して欲しいと思っているのは、心にしか見えない大切なもの、朽ちない冠を得ることである。新しくなった学校案内"MISONO"の最後のページには、この目標は簡単にまとめられている:"Find your mission" - 「自分のミッション・使命を見つけなさい!」、と。

 言うまでもなく、これは一人でやれることではない。共に走る「共走相手」は欠かせないが、競争する側面を完全に取り外すことではない。東京の上智大学、名古屋の南山大学が毎年行われている「上南戦」は今年第60回大会を向かえた。南山大学は準優勝、上智大学は最後から2番目という結果になったが、カトリック大学同士であるからこそ普段目に見えない大切なキリスト教精神を世間に示すエクササイズになったのではないか、と私は思う。

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リンク先:

宗教心理学研究会|Society for Study of Psychology of Religion

http://www.psychology-of-religion-japan.org/#宗教心理学研究会

聖園女学院新パンフレット

https://www.misono.jp/common/pdf/SchoolGuide.pdf

校長の声『リスニングテスト』

 質問がある時、いつも親切に教えてくださった恩師、イエス先生がいなくなってから、弟子達が気を落として部屋に閉じこもった時のことである。全く予告なしに「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録24節)バベルの塔(2018年7月24日の「校長の声」を参照)の事件で人類の共通語が失われた弊害を少しでも緩和するという、神の親切さを感じることができ、勉強なしに外国語で話せるようになることは学習者にとって非常にありがたい話ではあるが、このような現象が起こったのは、一回きりなので外国語で生計を立てている先生は心配する必要がない。

 外国語を学ぶ必要性に疑問をかけるのは、このような聖霊の働きではなく、むしろ通訳ソフトの躍進的な進歩であろう。外国語の知識・スキルは相変わらず必要であるが、言葉の壁を乗り越えて世界中の言語でコミュニケーションを取るために役立つことは、時間がかかる頭の回転ではなく、直ぐに出来るスマホをあしらう指の操作だかもしれない。

 ところで、神とのコミュニケーションになると、外国の勉強も通訳アプリも不要である―これは聖霊降臨の祝日が我々人間に伝えようとするメッセージである。何故かというと、聖霊は私達がそれぞれ理解できる言語で話しかけてくださるからである。(第2バチカン公会議までにラテン語で行われたカトリック教会の典礼は今各国の言葉で行われるようになったことを私は感謝しているが、バベルの塔の二の舞になるのではないかという批判の声もある。)

 言うまでもなく、それぞれの言葉で話しかけてくださる聖霊の賜物にはそれなりの課題も付いてくる。2021年1月から実施される予定の「大学入学共通テスト」の英語の試験では4技能、「読む」「聞く」「話す」「書く」は評価の対象となるが、聖霊が課す試験は「聞く」、リスニングテストだけである。理解できる言葉で呼びかけてくださる聖霊の声に心の耳(手話に頼っている人は心の目)を開いて、そこで分かったことを(イエスの弟子も貰った、心と心とを繋ぐ聖霊の通訳アプリを使って)自分の言葉でまた人に伝えることは我々人間の使命である。

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校長の声『星空を仰ぎ見て』

 マンガのピーナツの一つの場面。星空を見上げているルーシーの独り言。

"Poets tell us that the answers to life can be found in the stars ..."「詩人達は言っている、人生の答えは星の中から見つけることが出来ると。」

 予想通り、気が短いルーシーの"stupid poets" 「詩人の馬鹿」は最後のコマの落ちとなっているが、これと実に対照的な観想は旧約聖書にある。

 「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」 (詩篇第8編4節~5節)

 星空を見てがっかりする人もいれば、感激する人もいるが、その主な要因はやはり我々人間の見方、視点にある。

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 今年の2月1日の夜空には非常に面白い現象、金星と月は隣同士で仲良く輝いているのを見ることは出来た。物理的に考えれば、これは100%私達が受けている印象にすぎない。地球と月の距離はおよそ3万8千㎞、地球と金星の距離はおよそ3千8百万㎞であるが、我々人間の視点から、この二つの天体は遠くあるが、近くにいるように見えるのである。

 このような視点からの「誤算」は必ずしも悪いことではない。遠い国に住んでいる人が戦争や自然災害で苦しんでいるのをテレビで見て近くに感じることこそ、同じ人間同士の繋がりを正確に表している視点である。

 人生の中で一番大事な、意味のある事柄を見つけるために、自然現象や社会的実情の裏に隠れている、もっと深い現実に気づく必要がある。「百聞は一見にしかず」と言っても、その一見が言おうとしているメッセージを理解するためには、場合によって、百聞前後の説明が必要かも知れない。また聖書の言葉に戻る。

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記第1章31節)

 「美は見る人の目の中にある。」換言すれば、神が見てくださることは全て善くて美しい現実になる。これこそ我々人間に課せられた課題である- 愛に満ちた神の視点から我々の「共通の家」である地球、そしてそこで一緒に住んでいる兄弟姉妹という現実に気づくこと-

 どうすれば、それを出来るようになるのか。その第一歩をとるためのヒントはジャカルタの空港でみたポスターで見つけた。

Don't look only at your mobile phone

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 スマホから目を離して、時々夜空の星をみればいいかもしれない。

校長の声『Q & A』

 英会話で学ぶ挨拶の言葉には、次のようなやりとりがある。

"How are you?"

"Fine, thank you, and you?"

 質問に対する答えのように見えるが、対話はそこからあまり関係のない方向に進むのが普通である。(最初の質問に「本当に知りたいのか」と答えたく思う時もあるが。)フランス語も似たような仕組みになっている。

"Comment allez-vous ?"

"Bien, merci, et vous ?"

 初対面で使われる、多少固めの挨拶"How do you do?"に対して礼儀正しい答えは同じ"How do you do?"なので、形のうえでも答えを想定していない質問となっている。

 このようなやりとりは挨拶の場合に可能であるが、実際の生活において、役に立つ答えを得るために質問するのである。そのために教育機関のホームページには必ずFAQ、「よくある質問」の欄がある。聖園女学院のホームページには中学入試や学校生活に関する

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(https://www.misono.jp/examination/faq.html)

という欄があるし、そしてもっと細かい情報を求めている方に

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(https://www.misono.jp/contact/index.html)

のところで、電話番号やインターネットによる問い合わせフォームを提供している。

 答えの要らない挨拶もあれば、質問に対して明快な答えを必要とする場合もあるが、"Q & A"のやりとりにはもう一つの注意すべき点がある- 「自分の質問は適切であるかどうか」と自分に問いかける心構えを持ち続けること- 一つの具体例は、イエスが聖書の専門家と交わした、安息日に関する議論である。(マルコによる福音書3章1節~6節)安息日に関するルールの厳守を誇りとする人にとって不可欠な質問- 「安息日でやってはいけないことは何か」- に対して、イエスは別な質問を投げかけた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」間違っていたのは伝統的な答えではなく、既成の答えしか想定しない質問であった。

 4月から聖園女学院中学校に入学する新入生、そして現役の生徒に考えていただきたいことがある。親、先生、先輩、そして教科書は溢れるほど答えを提供しているが、「答えの前に質問があることこそ学びの出発点である。」というのは、教えてもらった答えが自分の持っていた質問の答えにならなければ、何のために勉強しているのか見えなくなってしまう危険がある。しかし、本物の学びになるためにはもう一歩前に踏み出す必要がある。

 質問の形での挨拶"How are you?"に敢えて別な質問で疑問をかける必要はないが、人生の基礎に触れる質問を自分なりに問いただすことは、同じ教室で一緒に学ぶ生徒達の共通課題である。答えを与えるより、質問を引き出すことが教育になる- 教員の1人として忘れないようにしたいと思う。

追伸

 グーグルで"How do you do"の翻訳を検索したら、答えは「ごきげんよう」になっていた。

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校長の声『はなむけのことば』

 2018年度最後の「校長の声」として、皆さんに3月1日に実施された卒業式での「はなむけのことば」をお届けします。

 ただいま卒業証書を授与された皆様、おめでとうございます。このよき日を待ち望んでいられた、ご家族の皆様にもお祝い申し上げます。本日、聖園女学院を巣立つ若者たちを、これまで心身両面において支えてくださったことに、心から感謝申し上げます。

 さて、卒業生の皆様、改めておめでとうございます。宗教の授業で私の話を聞いた皆さんだが、この「はなむけのことば」を最後の授業にして、「卒業」について私の考えを皆さんに紹介することにしました。

 日本語の「卒業」は、文字通り、一つの業(仕事・やるべきこと)を終えることです。聖園女学院での学習はこれで終わりですが、言うまでもなく、これからは社会での生涯学習が始まります。そこで、皆さんが学んだ英語のちょっとした復習から本論に入ります。

 英語で「卒業」を表す言葉は二つありますが、その一つはgraduationです。これは長い階段を登って、目指したところに辿り着いたことなどに用いられます。また、欲しいと思ったものを手に入れた時にもgraduationが用いられます。先ほど皆さん階段を登って手に入れた卒業証書は具体例です。

 もう一つの言葉は"commencement"です。卒業は始まりa "new" beginningです。今まで学んだことをベースにして、次のステップに踏み出すこと、より高いところを目指して歩み始めることです。この「始まり」にあたって皆さんに考えてもらいたいことがあります。「卒業」という目的に辿り着いて、これからもう一歩前に踏み出そうとする皆さんは、聖園女学院で学んだ事を生かしながら、何を目指して活躍するでしょうか。

 学校という場は社会で必要な知識と技能を安心して練習できる「実験室」だとも言えます。言い換えれば、学校は社会で直面する問題や課題に、失敗を恐れず、取り組むことができる練習場なので、学ぶのは学校のためではなく、社会で活躍する自分のためだ、ということがポイントです。皆さんは聖園で身につけた力をどのように生かして社会に貢献できるのでしょうか。

 ここでイエスが自分の弟子達におっしゃった言葉を、私は皆さんに送る「はなむけのことば」にしたいと思います。皆さんに配ったカードに書いてある「汝らは世の光なり」。

 どうすれば「世の光」になれるのですか。先ず一つのことを確認する必要があります。「世の光になること」は機械を操作する技術の問題ではありません。むしろ、どのようにして自分自身が一つの光になり、どのようにして自分が持っている光が世の中に変化をもたらす要因となれるかという課題です。

 当然ですが、ここで気になることがあります。世間が認める変化をもたらすために、どのぐらいの大きさの光が必要なのか?ヒントはカードに写っている、桜の花の後ろに見える月です。暗いところで輝く月なので、敢えて太陽と競争する必要はありません。

 決定的な変化をもたらすことの、もう一つのイメージは蝶々です。見にくい毛虫から美しい蝶になり、そして羽を広げて世界に飛び出す蝶々、というイメージですが、美しくて、可愛い蝶々には何が出来るのでしょうか。精々人の目を楽しませることしか浮かんでこないかもしれなませんが、このような弱い生き物にも大きな変化をもたらす力があります。これはカオス理論で謳われている「バタフライ効果」(butterfly effect)を通して発揮される力です。予測できることではありませんが、ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきは、藤沢で竜巻を引き起こす可能性があるのです。

 蝶々のように世界に飛び立つ皆さんは、分かっていると思います。きちんと計画を立てても、自分が持っている力が、どのように世界への貢献になるかは、誰も完全に予測は出来ません。しかし、私は期待しています。聖園で学んだ「人間の尊厳」「御心の愛」を信頼して、勇気を持って活躍すれば、皆さんは必ず変化をもたらす光か蝶々になれます。言うまでもなく、この「聖園効果」とも言える「バタフライ効果」に関して一つのことを自覚してください:自分から動かないと、この世の中は何も変わりません。今日の卒業式は新しい始まり、これからの毎日のチャレンジの始まりです。勇気を持って漕ぎ出してください。聖園の先生、そして私も皆さんを応援します。

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校長の声『神袋』

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校長の声『誤字』

K22-1.png 季節の挨拶や公式行事の招待状を印刷する前に綴りの間違いがないかと念入りに確認することは作成者の責任であるが、それにしても時々恥ずかしいか、面白い誤字になってしまうことがある。最近の具体例は今年度聖園女学院のクリスマスカードである。お生まれになった幼子を称える「栄光の賛歌」"Gloria"が"Glolia"になってしまったことを見つけたのは、カードの大半を配ってしまった後であった。K22-2.png

 最近のソフトウエアには「オートコレクト」、入力時のスペルミスを自動的に修正する機能が付いているが、安心して確認を機械に任せることが出来るのか、と疑問は残っている。漢字の手書きが苦手の私にとって、漢字変換をやってくれるコンピューターソフトは実にありがたいが、気をつけないと、とんでもない変換ミスの連続になる。

 間違うのはコンピューターだけではない。司祭叙階式(カトリック教会の神父になる儀式)への招待状を封筒に入れる作業中やっと見つけた- 最初の挨拶の文字は「主の不安」になっていたことを。考えてみれば当時の私の気持ちを正確に掴んだ表現であった。開き直って、イエスを死刑に決めたピラトと同様「私が書いたものは、書いたままにしておけ」(ヨハネによる福音19章22節)でことを済ましたら良かったのに、と今思っているが、当時の私はやはり招待状を刷り直して、原文の「主の平和」にした。

K22-3.png 新しい年の始まりにあたって、世界が平和になることを望んでいる多くの人に「主の平和」と挨拶する時期であるからこそ、今年もまた単なる言葉で終わるのではないかという、「主の不安」を感じる方が多いのではないか。世界の平和、そして私達一人ひとりの人生にはオートコレクトは効かないことを忘れないように、という新年の決意は必要かもしれない。

校長の声『生徒の声』

 「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(ルカによる福音書2章8節)

 毎年12月24日の夕方で祝われるカトリック教会の「夜半のミサ」は、イエスが生まれたその夜のことを記念する祭典である。実際に参加できた人は極めて少なかったが、この最初のクリスマスは野外で、天使の合唱団も登場する豪華なイベントだったに違いない。残念ながら当時の録音も楽譜も残っていないが、突然こんな素晴らしいパフォーマンスを目撃した羊飼い達は、模範的な反応を示した。今はミサ典礼の一部となっている"Gloria"(「栄光の賛歌」)、「天のいと高き所には神に栄光」という曲の素晴らしい演奏を聞いて、「世の光」が地上に現れた(花火大会のような光景?)を観賞できた羊飼い達は(拍手でアンコールを要求しないで)直ぐに動き出して、貧しい馬小屋で寝ていた幼子イエスを探し当てた。

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(大天使が掲げている字幕スーパーを見ながら羊飼い達の前で"Gloria"、「天のいと高き所には神に栄光」を歌っている幼い天使達。)

 素晴らしい感動させる演奏会であっても、聞いて満足した聴衆は家へ帰るのは普通であろうが、天使達が披露した心に響く歌の目的は、自分が何を求めて生きているかと聞いている人に気づかせることであった。

 聖園女学院の聖歌隊の定番である"Panis Angelicus"(「天使のパン」」は同じようなメッセージを伝えている- 天使達のGloria、そして聖歌隊のPanis Angelicus -は我々人間にとって美味しい話である。何故かというと、神の栄光は人類に平和をもたらす恵み、天使のパンは一人ひとりの心を養う恵みそのものだからである。

 12月の21日・22日に予定されているクリスマスキャロルとタブローは天使達のメッセージを生徒の声を通して忠実に伝える場になると私は確信している。演奏を聴きに来られた方々は心が「満福」になり、家へ帰る途中でも頂いた恵みが自分に何を求めているかに気づくことを祈っている。

Panis Angelicus.mp3 (2018聖歌隊聖園祭公演 Panis Angelicus 音声)

校長の声『花火』

 キリスト教の聖典である聖書は「天地創造物語」で始まるが、「神は宇宙万物をどのように創造したか。」の説明には二つのバージョンがある。テキストとして古い方(創世記2章4節以降)において「地と天」を造った後、神は先ず「土の塵」から人を形づくり、そしてその次に人の生活を支える環境を整えた。もっと新しいバージョン(創世記1章1節以降)において自然環境が完成してから、神は最後に人間を「自分にかたどって創造した。」のである。

 存在する全てのものの起源と意味について(自然科学と全く違う観点から)語る聖書なので創造の順番は問題にはならないが、大分前から1つの箇所(1章の3節)を不思議に思っている。

『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』

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 見ている人が誰もいなければ、光の輝きはあり得るのであろうか。我々人間の世界を例にして言えば、時間とお金をかけて準備した花火は誰も見ていなければ、その輝かしい景色は存在するのであろうか。(「もし森で木が倒れて、周辺にそれを聞いた人が存在しなかったら、音は鳴るだろうか?」- "If a tree falls in a forest and no one is around to hear it, does it make a sound?"という、哲学と自然科学の領域をまたがる有名な謎に通ずるところがある。)

 私の勝手な(聖書に根拠のない)推測であるが、最初の光に拍手を送ったのは、神の創造の業を注意深く見守っていた天使だったではないか。(「隻手音声」ではなく、両手を使っての拍手であった。)花火であろうか、神の素晴らしい光であろうか、やはり一人で見てもあまり面白くない。仲間と一緒に感動して、食べたり飲んだりしているからこそ、私達の心を明るくする輝きになる。

K20-2.jpgK20-3.jpg見ている人を圧倒させる大きな打ち上げ花火もあれば、静かに手で持たなければ落ちてしまう線香花火もある。どちらも一瞬で消えてしまう光ではあるが、目に見えなくなっても、私達の心に残っている光をバネにして、世の中をもう少し明るい場にできれば、と思っている。

校長の声『平和の祈り』

 南山大学の一年生を対象とする講演会、「カトリック大学の精神とは何か」で「地の塩」の例え話のほかに、聖園女学院の生徒が朝礼で唱える「平和の祈り」を具体例として使った。南山大学の入学式と卒業式には山本直忠作曲の「平和のための祈り」が(清田健一が編曲した合唱団と管弦楽団版で)演奏される。アッシジの聖フランチェスコの作詞とされているテキストは、山本直忠の綺麗なメロディと一緒に、カトリック大学の精神を表現する作品であるが、学生からの反応の一つ

「僕は塩でも道具でもない。一人の人間です。」

のコメントは、私を色々と考えさせた。

 このような反応のきっかけは「平和のための祈り」の始まりにあった。

「ああ主よ われをして おんみの平和の道具とならしめたまえ」

 道具という言葉に拘れば、「とても自虐的な考え方だ」という意見は不思議ではないが、全文を読めば平和をもたらすために我々が果たすべき役割は単なる道具ではないことが見えてくる。

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1枚目:アッシジの聖フランシスコの歌

 確かに、原文の仏語("Seigneur, faites de moi un instrument de votre paix")と英語訳("Lord, make me an instrument of your peace")で使われている言葉は"instrument"ではあるが、「千の風になって」の作曲者として知られている新井満(上智大学法学部卒業)は「道具」と「楽器」と翻訳出来る"instrument"に着目して「神様のシンフォニー」という、上智大学創立100周年記念式典で初演された合唱曲「平和の祈り」を作曲した。歌詞は彼の自由訳で次の言葉で始まる。

     「神様、おねがいがあります

      どうか、このわたしを

      楽器にしてください

      1つの小さな楽器となって

      多くの楽器たちと

      力をあわせ

      奏でさせてください」

 各楽器それぞれの持ち前の力を合わせて戦争ではなく、平和を演奏することこそ神が我々人間に期待していることに違いない。美声の持ち主で独奏をやりたがる人も、そして練習不足で第2バイオリンに下がった人も自分にしか出来ない役割を果たして、力を合わせて神が喜ぶ曲を演奏すること、これは本物の「平和の祈り」ではないか。聖霊中高の聖歌隊、そして南山大学管弦楽団・合唱団の演奏を聞く度にそう思うのは私だけではないであろう。

参考資料:

聖霊中学校高等学校聖歌隊 平和のための祈り:https://www.youtube.com/watch?v=WcyKC00eOSQ

南山大学管弦楽団・合唱団 平和のための祈り:https://www.youtube.com/watch?v=pbueokyITH0

※ ご視聴なさりたい方は、上記のURLを検索してください。

校長の声『Puzzle』

 34年前、ヨーロッパ研修旅行の引率の時、イタリアのミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチの名作「最後の晩餐」を観賞する機会があった。保存状態が悪く、原作の姿を保っているのはほかの画家が描いたコピーだという説明を受けたが、それにしてもイエスとその弟子達とのやりとりをリアルに伝えている様子は印象深かった。

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 聖園の手芸部の生徒が取り組んだプロジェクトの中にはダ・ヴィンチのこの名作をクロス・スティッチの刺繍で再現する作品がある。10年をかけて出来上がった完成品は講堂の後ろに飾ってある。原作に近いコピーが目的であれば、写真を撮った方が早いが、長い時間をかけて作り上げた刺繍は、元の作品の魅力を別の形で伝えていることは確かである。何故かというと、近くから見ればクロス・スティッチのバラバラの針目しか見えないが、距離をとって眺めれば全体像が浮かび上がってくるのである。

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 神言会の黙想の家には同じ「最後の晩餐」の複写が飾ってあるが、これは原作の写真を元にしたジグソーパズルである。クロス・スティッチと同様、近くから見れば各紙片がくっきりと見えてくるが、一歩下がって観察すれば、このような細かいところは1つの絵にまとまってくるのである。

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 ミラノで見た現物は印象深かったが、刺繍やジグソーパズルの作品を見て色々と考えさせられた。

 人生とは、ジグソーパズルのように、既製品から組み合わせる作業であろうか。或いは糸と針を使って1つのイメージを再現する作業であろうか。それとも(ダ・ヴィンチのように)一人で創り上げるオリジナルの芸術作品の創作であろうか。

 意見の分かれる事柄ではあるが、1つだけは言えると私は思う。人生は正解があるパズル・謎である。創り上げるには必要な材料と道具、組み立てに必要な小片、そして他の人と違うイメージを生み出すための想像力は神が提供してくださる。いずれにしても、全体像を見るには長い時間を使って細かい作業に取り組まなければならないという覚悟は必要であろう。

校長の声『自己紹介』

K17-1.jpg 初めて会う方に渡す名刺のことを英語で"business card"と呼ぶ。基本的な情報(氏名、会社、役職、連絡先等)が記載されている商売に役立つ一枚の紙なので、極めて的確な名称である。仕事の一環として長年名刺交換をしてきたせいか、名刺がなければどうなるのか、と心配するときもあるが、自己紹介ぐらいなら、日本に来て間もないうちに日本語学校で教えてもらった台詞で十分に自己紹介できる。「カルマノと申します。ドイツから来ました。よろしくお願いします。」

 限られた日本語力で会話を続けることは決して簡単ではないが、言葉の壁を乗り越えて、また次の難問が待ち構えている。同じ母語同士で話し合っても、互いに話が通じない時は多々ある。では、神と人間との初顔合わせのときはどうなるのであろうか。

K17-2.jpg 1つの具体例は初めて神に出会うモーセの話である。神からのメッセージをイスラエル人に伝えるとき「その名は一体何か」と聞かれたらどう答えるべきかというモーセの質問に対して、神の自己紹介は実に興味深い:「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」「わたしは『ある』ものである」。(出エジプト記314節、原文校訂による口語訳、フランシスコ会聖書研究所訳注。)

 一枚の名刺に印刷すれば、先の「美蛙」の名刺と比べると情報が少ないように見えるかも知れないが、ヘブライ語の原文に近い未来形の動詞- 英語で"I will be what I will be" - と翻訳すれば、この神の名前だけでも完結な、必要な情報を全て提供する自己紹介になる。分厚い聖書に記載されている神の自己紹介を一枚の名刺にまとめることができる。「連絡先はその時その場で教えてあげるから心配しないで」、と。

 ちなみに、いつでもどこでも連絡できる方の自己紹介を正しく聞き取れるためには、普段情報交換に使っている名刺入れとスマホを定期的に自分の手が届かない所にしまっておく必要がある。

校長の声『バベルの塔』

 同じ人間なのに、人は何故数多くの言語で話しているのか。旧約聖書の「バベルの塔」の神話は極めてわかりやすい説明になる。人々はかつて共通言語を用いていた。その人々はとんでもない企画として「天に届く塔を建てよう」と呼びかけた。それを知った神の怒りにふれて、人々は共通言語を失った。互いに話が通じなくなった「彼らはこの町の建設をやめた」という結果になった。(創世記11章7節)

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 この納得がいく、分かりやすい説明の延長線で考えると、外国語教育は真に天罰の続編に見える反面、でたらめな英語表記を訂正できる外国語の先生にとって雇用保障となっている。

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 バベルの塔の失敗がもたらした被害はめんどくさい外国語を学ぶ授業だけではない。自分の言語と文化を根拠にして、何も考えずにほかの言語で話す人を位置づけてしまう危険に、いつも注意すべきであろう。古代ギリシアの人はギリシア語を話せない、ギリシアの慣習を知らない人をßάρßaροι(バルバロイ)と呼んでいたが、この言葉は今でもヨーロッパの言語で「野蛮人」という意味で使われている。英語を使って仕事ができない人は、グローバルな社会に貢献できないという偏見に通じる側面があるのではないか。

 色々な外国語を教えたり学んだりする取り組みを神が下した罰の悪影響として、少しでも和らげる努力を評価すべきか、それとも批判すべきか。どちらにしても、注目すべきところは外国語教育の目的であろう。神が混乱させた外国語の裏には1つの重要なメッセージが隠れている。色々な言語でコミュニケーションをとれる人間であるからこそ、私達にはこの貴重な能力を活かして全ての人が一緒に生活できる"common home"(「ともに暮らす家」)を築ける使命がある。

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 バベルの塔のようなものは、やはり要らないと教えてくださった神にThank You!を言いたい。

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校長の声『恵み』

 色々なことで悩んで愚痴をこぼす時に言われる言葉がある:

"count your blessings"

 悪いことにだけ目を奪われず、神がくださる多くの恵みを数えよという、多少お叱りが含まれている励ましの言葉である。神の恵みは果たしてそう簡単に数えることが出来るものかという疑問はあるが、自分が置かれている状況を別の観点から見直す助言としてはそれなりの説得力があろう。

K15-1.jpg このような観点でものを捉えると、職員室に置いてある大きな字で「恵み」と書いてある石に圧倒されそうな小さなペンギンの小物もある。本物の恵みであれば、これは我々人間が把握できる範囲を遙かに超えているだけでなく、その形も色々ある。

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 一歩前に出ろと、優しく肩を叩くような励ましもあれば、これより先に行ってはいけないと告げる障害物もある。そして場合によっては多くの仲間を無視して、全く違う自分を相応しい方向に導く頑固さにもなる。なお、どちらにしても、この恵みの全ては人間と神を結ぶ紐付きのプレゼントであることを忘れてはならない。

K15-3.jpg 梅雨の鬱陶しい曇り空から降ってくるものは間違いなく恵みの雨であるということは蛙にとって常識であるが、ペンギンも納得するためにある程度の工夫(例えば語り合うときにちょっとだけ美味しいものをさしあげること)は必要である。色々なサイズと形で降ってくる数え切れない恵みを見逃さないで神の配慮に気付く事は、幸せな人生を送る秘訣かもしれない。

校長の声『早起きは三文の得』

 昨年4月の引っ越しの際、名古屋から藤沢に持ってきた数少ない書物の中に「ことわざの泉―日・英独仏中対照諺辞典」(高嶋泰二(著)、北星堂書店、増補版、1981年)という本が入っていた。各項目で直訳と一緒に、それぞれの言語で同じ意味を表す諺も紹介されているので、「なるほど」と思わされた発見は何回もあった。例えばタイトルの「早起きは三文の得」は英語で"The early bird gets the worm"(早起きの鳥はミミズを捕らえる)、ドイツ語で"Morgenstund hat Gold im Mund"(暁は口中に金を持つ)となり、イメージが違っていても言葉と文化を越えて、早起きの価値を称賛するメッセージは伝わってくる。

 ところで、旧約聖書には非常に現実的な観察がある。「朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。」(箴言27章14節)早起きの功罪に関する賛否両論の議論をまたいつかの機会にして、このような諺が表している知恵の出所に注目したい。つまり、人生に意味と方向性を与える知恵には、著作権があるのであろうか。

 伝教大師最澄の「忘己利他」(おのれを忘れて他を利する)はイエスの「隣人を自分と同じように愛しなさい」に通じるだけでなく、「愛人如己」という四字熟語に変えれば、その共通点がよく見えてくるのではないかと私は思う。聖園女学院の教育理念、Reiners師の「一人の存在は必ず一つの貴い使命・ミッションを持っている」に相当する有名な人類学者のJane Goodallの言葉がある。"Every individual matters. Every individual has a role to play. Every individual makes a difference."(各個人は大事で、特別な役割を持ち、必ず違いをもたらす。)

 言葉と文化を越えて通ずる知恵であるから、その著作権は宇宙の作り主にあることにしたい。この知恵を色々な言語で表しているからこそ、その豊かさをもっと深く味わうことが出来る。外国語を勉強することは三文の得にもなるであろうが、神の知恵をもっと深く理解できるという副作用はもっと価値があるかもしれない。

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校長の声『"The pen is mightier than the sword"』

 人類の長い歴史を振り返ってみれば、武器と文具の力比べは「ペンは剣よりも強し」という、単なる希望的観測ではないと言えるであろう。何故かというと、人間の本当の強みは競争相手を腕力で押さえることではなく、真理を見極める理性で愛の輪を広げることにあるからである。剣の暴力に勝つペンの秘訣は恐れず真理を伝えるところにあるが、この真理の力の内密は何であろうか。聖書からの二つの言葉は参考になると思う。先ず旧約聖書の言葉。

 「口には神をあがめる歌があり/手には両刃の剣を持つ。」(詩篇149編6節)

 賛美歌を歌いながら、人を傷つけることは、いかがなものかという印象を受けるかもしれないが、「詩編」は(表現を少し変えながら)同じ事を2回並べた形で書かれた文学作品である。"祈りこそ我々人間を守る神の力となる"という意味であろう。この力をもう少し詳しく説明しているのは新約聖書からの次の箇所である。

 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ人への手紙4章12節)

 換言すれば、神の言葉は両刃の剣であって、自分の都合がいい目的に使える武器ではない。

 昨年は宗教改革の500周年記念の年であったが、妹は宗教改革者ルーテルの面白い小立像を贈ってくれた。聖書の立派なドイツ語翻訳を成し遂げたルーテルのペンこそ「剣よりも強し」だと思って校長室に飾ってある。その直ぐ隣にバチカンのスイス衛兵の小立像が置いてある。ルーテルのペンはバチカンの矛(ほこ)よりも強かったかもしれないが、今二人は仲良く並んで、人の心を動かす神の力を表していると私は思う。

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校長の声『新入生への励ましの言葉』

 新しく聖園女学院に入学した中学校一年生、保護者の皆様を心から歓迎します。今日から6年間の聖園での長い学校生活に入る皆さんに励ましの言葉を贈ります。

 新しいことに手を付ける時に、必ず色々なチャレンジがあります。予想も出来なかった難しい課題も見えてきます。

 しかし、チャレンジ・課題だと言っても、皆さんが持っている力で対応できるもの & 皆さんの成長に貢献するものがあります。

  例えば、藤沢本町からの長い坂道は、足が丈夫になります。

  聖園の新しい制服は、自分の個性を表面的な服装ではなく、自分の言葉と行いで表すものです。

  「宗教」という少し変わった教科は、自分が何を信じて生きているかを考えさせる授業です。

  お祈りで始まる毎日は、自分が何に向けて先に進んでいるのかを考える時間にしてください。

 実は、この毎日の祈りの時間は皆さんを支える力になると確信しています。かかってくるチャレンジを正しく理解し、受け容れることを手伝う静かな黙想の時間が役に立ちます。

 もう一つ、皆さんの助けとなるのは友達作りです。聖園のチャレンジに直面して困っているのはあなただけではありません。隣に座っている友達と分かち合ってみてください。

 キリスト教的な言葉に代えると、『神はあなたを必ず見守って、あなたを一人にはしない。』

 最後に、一つの課題としてJosef Reiners(聖心の布教姉妹会・南山学園の創立者・神言会司祭)の言葉を紹介します。

 「一人の存在は必ず一つの貴い使命・ミッションを持っている。」これはMission Schoolである聖園の理念と目標を表す言葉です。聖園が目指している目標は自己理解:自分の使命・ミッションを自分で見つけることです。

 それに関連して、保護者の皆様にお願いがあります。聖園の使命は学校だけでは実現できません。お嬢様が自分のミッションを見つけて成長するためには保護者の皆様と学校との協力体制が不可欠です。

 これで私の「励ましの言葉」は終わりますが、今後、学校・保護者・生徒が手を組んで、互いを励まし合うことができるように祈っています。

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校長の声『"What Knowledge Is of Most Worth?"』

 「如何なる知識が最も価値があるか。」これはイギリス哲学者ハーバート・スペンサーの著書、『教育論(知育・徳育・体育論)』の第1章のタイトルである。新しい学年の始まりに相応しい質問に聞こえるかもしれないが、この質問に含まれている重要な課題を見逃せば、かなり幅が狭い答えになる危険がある。卒業後のキャリアに役立つ知識・技能を習得することは不可欠であるが、学ぶ価値がある知識・技能を求める前にもう一つ、もっと重要な質問に気づく必要がある。習得しようとする知識・技能に意味を与える命、知識・技能が道具として支えている私達の"この命とは何か"、という質問である。

 この質問について考える手助けとして日本カトリック司教団が出版した『いのちへのまなざし』(【増補新版】、2017年)を勧めるが、今回は、聖書の多少謎めいた言葉を出発点とし、"命の大切さ"について考えてみる。箇所はヨハネによる福音、12章24節から25節。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 大学一年生を対象とする授業で取り上げた時、その大学生から実に正直な反応があった。「私はまだ、一粒のままでいたい。まだ他人のことまで考えられません。」「一粒の麦の話で、自分が死んだら次の生命につながるということは、若い人にはあまり考えてほしくないなと思いました。...若い人には懸命に生きてほしいと若い私も思います。」言うまでもなく、私みたいな人は若い世代に、このような話を聞かせることは本職である。

 人間の命は私達が「持つ」ことができる「物」ではない。むしろ、種のように、それを手放さないと、潜まれている可能性は展開できないのである。敢えて「物」のイメージでいうと、命は、神の道を歩みながら、バランスよく手で持つ神から預かった壊れやすい宝物である。いずれにしても、命と一緒に頂いた"この使命"を果たすために如何な知識が本当の価値があるのかを考えることは、命に眼差しを向ける教育の課題である。

K12.jpg1枚目(左上):いのちへのまなざしのカバー             

2枚目(右上):「一粒の麦」を引用する旧名古屋聖霊短期大学の記念碑

3枚目(下) :バランスよく互いの命を守る南山大学の応援団 KOALAS

校長の声『昔話』

 昔話と言えば概ね、お年寄りが自分の経験と得意な知識を、興味も関係もない若い人に押しつける一方的なおしゃべりだという印象をうけるが、今回の「校長の声」は正にこのような昔話になると警告して、本論に入る。

 死語とも言われているラテン語は、毎日全世界のカトリック教会のミサで生きていた言葉であったということは昔話のように聞こえるかもしれないが、教会の典礼が各国の言葉で行われるようになってからまだ55年しか経っていない。この改革をもたらしたのは第二バチカン公会議(1962-1965)であったが、変わったのは言語だけではなく、典礼に使われているテキストにも変化が見られる。個人的に気になるのはレクイエム(死者のためのミサ)から姿を消した"Dies Irae, Dies Illa" (「怒りの日」)、福音朗読の前に歌われた、最後の審判を劇的に描くセクエンツィア(続唱)である。

 気になる理由は音楽である。このテキストは今でもレクイエムのいくつかの名曲(モーツァルト、ヴェルディ、ベルリオーズ)の中で生き続けていて、人を感動させているのである。しかも、「怒りの日」のグレゴリオ聖歌のメロディは、レクイエムと全く関係ない曲にもよく使われている。例えば、ベルリオーズの幻想交響曲に登場するタイミングはこの曲の不思議な雰囲気を醸し出す一つの要因なのである。

 ところで、一つのメロディの使用は決して一方通行ではない。アニマルズのヒット曲「朝日のあたる家」(元々アメリカ合衆国のフォーク・ソング)のメロディに予想しなかったところで出合った。会議のために滞在していたブラジルの町でミサ曲の一部に使われていた。もっと昔の話になるが、ポップソングのメロディがミサ曲になる例は数多くある。有名なのは15世紀のジョスカン・デ・プレのミサ曲「武装した人」である。そしてバッハのマタイ受難曲で大事な場面をマークする聖歌、"O Haupt voll Blut und Wunden"、「おお、血と涙にまみれた御頭よ!」のメロディは元々憧れの女性を慕う恋の歌であった。

 今年の3月25日からの一週間を教会はイエスの死と復活を記念する「聖週間」として祝う。2000年前の出来事が単なる「昔話」で終わらない、私達に話しかける生きている物語になるために、それを記念する典礼の厳粛な伝統を親しみやすいポップソングのメロディで歌うことも必要であると思う。人類のために死の苦しみを受けてくださった神の子イエスに心に訴える新しいlove songを歌うことは各時代の課題となっているからである。

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1枚目:"Dies Irae, Dies Illa"のグレゴリオ聖歌のメロディ

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2枚目:"L'homme armé"「武装した人」のメロディ

K11-3.jpg3枚目:毎年の10月に南山大学のパッヘスクエアで行われる野外宗教劇『受難』も

このようなlove songの具体例であろう。

校長の声『四旬節』

 カトリック教会は季節によって祭服の色を使い分けているが、節制と悔い改めの象徴と見なされている紫を使う時期はクリスマス前のおおよそ4週間の待降節、そして復活祭前の40日間の四旬節である。和洋折衷の祭りで言えば、四旬節は(どんちゃん騒ぎの)節分と(卵探しの)Easter Bunny(イースターのウサギ)と、息抜きのために3月3日のひな祭りが挟まれている期間である。ドイツ語では馬鹿正直に"Fastenzeit"、断食節と呼ばれているが、英語の"Lent"の語源は「春」、ラテン語の"Quadragesima"は40(日)で、具体的に何をするかを定めない期間の名称となっている。

 聖書には40日の四旬節と断食を結びつけるいくつかの話があるが、代表的なものとして新約聖書からマルコによる福音の第1章、12節~13節を紹介する。イエスがヨルダン川で洗礼を受けた後の話である。

 「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

 この最初の四旬節が終わった後、イエスは本格的に神の国を伝える宣教活動を始めたが、我々人間にもやはりこのような期間が必要であろう、砂漠のように荒れ果てた自分の心を見つめ直す四旬節として...

 考えてみれば、これは四旬節だけのことではない。整理整頓だけで解決できる問題でもない。自分の成長に繋がる活動を見つけ、人生の限られた時間を有効に使うことは、季節と関係ない継続課題である。

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1枚目&2枚目:整理整頓で解決できる問題の具体例二つ

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3枚目:カリタスジャパンの「四旬節 愛の募金」ポスター(2018)

校長の声『お陰様で』

 2月14日はバレンタインデーという祝い日であるが、国によってその内容はかなり違う。(ウィキペディアで"Valentine's Day"を検索すればその多様性は見えてくる。)「義理チョコ」のような造語は日本型バレンタインデーの特徴を表しているが、今年の2月14日はカトリック教会の別な祝い日と重なっている。これはカーニバル・シーズンに終止符を打ち、チョコレート等のような甘い食べ物を控える、節制に勤める「四旬節」の始まりをマークする「灰の水曜日」である。モロゾフや明治の売り上げはあまり伸びないかもしれないが、お陰様で、今年は○○チョコの配りを辞めて、相手の霊的生活の向上に貢献するチャンスが廻ってくるのである。

 感謝の気持ちを表す「お陰様」の言葉は聖書にもある。「瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。」(詩編17編8節)実に興味深いイメージである。私達を守っているのは爆弾攻撃に耐える地下壕ではなく、私達の周りを動き廻り、場合によってその翼に載せてくださる神である。(だからこそ神の御使いである天使には翼が必要である。)

 お陰様の元々の意味に近いもう一つの例は昔(フラッシュの代わりに)使っていた閃光粉(せんこうふん)である。キャンプファイアーに閃光粉を蒔いて写真を撮るときかなり眩しくなるので、カメラとキャンプファイアーの間にギターを弾く一人が立ってもらった。お陰様でいい写真が出来てのではないか、と私は思う。(海岸で砂に残っている足跡の向こうに見える日没の斜陽のまぶしさにはまた別な魅力があるが。)考えてみれば、我々と同じような人間になってくださったことは神の特別な配慮に違いない。目に見えない大きな光の前にイエスの姿があるからこそ、お陰様で人生にとって大切なことがはっきりと見えてくる。(例えば義理チョコではなく、普通の食べ物を必要とする人。)

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1枚目:ボーイスカウトのキャンプファイアー (1964年)

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2枚目:藤沢の海岸 (2017年)

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3枚目:カリタスジャパンの「四旬節 愛の募金」ポスター (毎年)

校長の声『ミカエル』

 お正月にちょっとだけ明るい話にしたいと思ったところ、浮かんできたのはカトリック教会の典礼からの言葉:

in lucem sanctam 聖なる光へ

 東から登ってくる光はいつもと同じ太陽であるが、元日に見える日の出はやはり特別であろう。元日に早起きして初日の出を見に行くのは少数派かもしれないが、晴れ着での初詣に出かけることとともに、日本のお正月であろう。

 ところで、先の「聖なる光へ」は別な方向を向いている。これは初日の出にではなく、最後の日に見える光の話である。引用されている箇所は「レクイエム」、死者のためのミサからの奉献唱である。

"Signifer sanctus Michael repraesentet eas in lucem sanctam."

「旗手たる聖ミカエルが彼らの魂を聖なる光へと導きますように。」

 ここの「彼ら」は「全ての死せる信者」のことである。"New Year Resolution"、新しい年の初めに掲げる決意には、年によって、それぞれ違う目標が表明されるであろうが、このような新しい出発点においても人生の最終目的、神である「聖なる光」に向かって歩み続けることは変わらない。

 変わらないことはもう一つある。この世に生きている時から私達の道を見守ってくださる大天使ミカエルの導きである。「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わす時こそ、私達の決意を応援してくださる方々とともに、神の旗手である大天使ミカエルにも感謝したい。

 この辺でお正月と大天使ミカエルの話を締めてもいいかもしれないが、折角なので聖園女学院のミカエルについて紹介させていただく。ミヒャエルスベルクの大天使とちょっと違って、正門に近いところで構えているミカエルは「3・蛙」の形で生徒の登下校を見守っているのである。無論、当然ながら本学院へ来校される方で、この「3・蛙」に気づかれない方でも見守られている。

 聖園女学院は、今年も、生徒と卒業生が安心してカエルことが出来る場であり続けることを祈っている。

K8-1.jpg1枚目:ドイツのSiegburgの名所であるMichaelsberg( ミヒャエルスベルク)の聖堂にある

大天使ミカエルの像。

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2枚目:盾に書いてある "QUIS UT DEUS"「神に似たるものは誰か」は

元のヘブライ語である「ミカエル」の翻訳。

K8-3.jpg3枚目:「3・蛙」

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4枚目:「3・蛙」の目線から世を見る。

校長の声『Recreation』

 「クリスマス」とは何か、という質問に対して「イエス・キリストの誕生日」は正解であるが、事実を並べる説明だけでは納得がいく答えにはならないであろう。何故かというと、クリスマスは世界中で色々な形で(時々キリスト教的背景が見えなくなるほど)祝われている祭りとなっているからである。どちらが本物のクリスマスであるかは多少気になるが、一言だけは言えると思う。クリスマスは時代、文化そして宗教の境界線を越える"Happy Birthday"の祝い、大勢の人が毎年ハッピーとなる誕生の祝いとなっているのである。したがって、花見と同様、イエスの誕生もお酒を飲む口実になってしまう可能性はあるが、このような(悪く言えば)単なる"recreation"、娯楽には一つの重要な側面がある。皆で楽しく祝っている祝日は多くの人と共有できる懐かしい思い出の源となる。一つの具体例として、昔のカルマノ家のクリスマスを紹介する。

 クリスマスツリーと一緒に居間で飾った馬小屋はお爺さん(母の父)がつくったものだが、下敷きには必ずカルマノ家のきょうだいが森で集めた苔を使っていた。つまり、毎年この馬小屋を自分が集めた苔でもう一度"re-create"再生(再創?)し、自分のものにすることは我々きょうだいにとって大事な思い出となっている。

 出来上がった馬小屋の外見は(例えば)Puerto RicoのSan Juan、南山大学のキャンパスや神言神学院のチャペルにあるものと比較できないほど違うが、決定的な違いはやはり毎年きょうだいと一緒に積み重ねた苔集めの特別な思い出である。南山学園の聖霊中高が毎年12月24日の夕方に名古屋の中心で実施しているクリスマスコンサート「Eve, My 青春!」、そして聖園女学院のクリスマスキャロルとタブローには同じような効果があるのではないかと私は思う。

 "Christmas"は"Get-mas"、神からの大きなプレゼントをゲットできたことから始まった、イエスの誕生を通して神は私達の世界をもう一度根本からre-createしてくださったプレゼント。しかも、最初の天地創造の時と違って、神が子供として生まれ、世界の内から働きかける"re-creationであった。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音18章)人に説くことを自分でも実行する、模範を示してくださったイエス。その誕生を祝うクリスマスが今年も皆さんの良い思い出になることを祈っている。

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1枚目:カルマノ家の馬小屋

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2枚目:プエルトリコのサンフアンで見た馬小屋

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3枚目:南山大学のキャンパスに毎年飾ってある馬小屋

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4枚目:神言神学院のチャペルに飾ってある馬小屋

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5枚目:聖霊中学校高等学校のクリスマスコンサート(名古屋の栄)

校長の声『Rainbows』

 「何故、目に見えないものを信じようとするのですか?」

 これは高3の生徒が宗教の時間で取り上げて欲しい質問である。一つの答えは「星の王子様」に登場するキツネの言葉であろう。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」もう一つの対応は昔あるマンガで見つけた名言である:"If you don't know the answer ... question the question"「答えが分からなければ質問にケチをつけてみるがよい。」しかし、上のような質問を議論せず簡単に片付けようとするのはあまりよくない。丁寧に取り組む必要がある。

 一つのヒントは画家ピカソが芸術の役割について残した言葉である。"We all know that Art is not truth. Art is a lie that makes us realize truth"「芸術が真実でない事は誰もが知っている。芸術とは真実を悟らせてくれる嘘である。」ところで、このような重要な役割を担っているのは芸術だけではない。日常の自然現象にも真実を悟らせる機能がある。一つの具体例は雨の後に果てしなく空を渡る虹である。

 観察すれば世界中のどこでも全く同じように見える自然現象である虹には、何故色々な(科学的な裏付けのない)話が纏わっているのであろうか。日本にはイザナギとイザナミが虹を渡って下界に来たという神話がある。(下界に降りた道は天橋立だったという説もあるが、)アイルランドの古い伝説は、虹の麓には黄金の壺があると約束している。そして旧約聖書創世記9章17節によると、虹は神と人間との間に結ばれた平和の契約のシンボルである。「神はノアに言われた。『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」

 科学に頼れば、光という自然現象の効果として完璧に解明できる虹であるが、空の虹を見上げる時、事実と関係ないストーリーが私達に見えてくるのは何故であろうか。このようなストーリーは元々私達の心にあって、私達はその(偏見と思われるような)観点から物事を見ている。これは心理学の説明である。しかし、ストーリーはどのようにして私達の心に入ってきたのだろうという問いは、最初に引用した生徒の質問と同様、心理学が取り扱える領域を超えている。

 人類のはじめから、人間は何故目に見えないものを信じようとしてきたのか。詩編36編10節に書いてある言葉は参考になるのではないか。「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは(虹の)光を見る」。

K601.jpg1枚目:オーストラリア(Fremantle)で見た虹

K602.jpg2枚目:ドイツの実家から見た虹

K603.jpg3枚目:みその台から見た虹

K604.jpg4枚目:京都府宮津市の天橋立

校長の声『縁』

 10月17日(土)には「善行雑学大学」が企画した「グリーンハウス物語第21話 - シスターたちが散策したゴルフ場跡地 -」が実施された。布教と学校教育に専念する聖園女学院のシスターたちはゴルフと全く縁のない生活しているであろうが、似たような例は昔からある。たとえばドイツのトリーアでローマ帝国のコンスタンティン皇帝が4世紀の初め頃に建築した講堂(Aula Palatina)は、今は教会として使われている。そして西暦126年にローマの神々を奉る万神殿として建設されたパンテオンはその後、唯一の神を拝む礼拝堂になったのである。考えてみれば、神が創造した1つの宇宙・世界なので、このような転換は決して不思議ではない。

 ところで、神奈川県立体育センター地域内に残っている旧藤沢カントリー倶楽部のクラブハウスについて5月頃南山大学同窓会の方から情報が入った。その設計者は、1964年に完成した南山大学のキャンパスを設計した、前々回の「校長の声」にでも紹介したAntonin Raymondである。この卒業生が曰く、「聖園のすぐ近くにもまたRaymondの建物があるのは本当に不思議な縁ですね。」ちなみに、南山大学に隣接する神言神学院もRaymondの設計である。

 グリーンハウスに興味がある方々が聖園をも見学することになったのは本当に喜ばしいことである。ここに言うまでもなく、聖園女学院と南山学園を繋ぐ縁は、Antonin Raymondが設計した建物よりはるかに深い。宣教修道会である神言会の総長によって日本に派遣されたライネルス師が、聖心の布教姉妹会そして南山学園を創立したことは2つの学校法人の合併に至った縁ではあるが、ここには大きな力が働いている違いない。 -場所、建物、人が多様に変化する世界の出来事を繋ぐ縁の裏には私達を見守ってくださる神の摂理がある- という信念は聖園女学院、そして南山学園の教育を創立以来支えてきた。何故かというと(ある歌の言葉を借りて)、神は全世界をその御手にもっているからである。 -"He's got the whole world in his hands"-

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1枚目:Aula Palatina(ドイツ・トリーア) 外観

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2枚目:Aula Palatina(ドイツ・トリーア) 内部

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3枚目:パンテオン(ローマ)

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4枚目:グリーンハウス(藤沢市善行)

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5枚目:南山大学キャンパス(名古屋)・春

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6枚目:南山大学キャンパス(名古屋)・冬

5-7.jpg7枚目:神言神学院のチャペル内

校長の声『十字架称賛』

 カトリック教会の典礼歴には沢山の祝い日はあるが、9月で目立つのは29日の大天使ミカエルの記念日、そして14日の「十字架称賛」の祝日である。大天使ミカエルのことはまたいつか話すことにして、今回は「十字架称賛」について多少個人的な観想を紹介する。

 このような話題は多少の違和感を与える内容に見えるかもしれない。何故かというと、称賛されているのは間違いなく、ローマ帝国の時代に多くの人を苦しませた死刑の道具だからである。しかし、私にとって称賛されるのは、痛ましい磔(はりつけ)よりも、故郷ドイツのLimburg(リンブルク)の大聖堂の博物館に展示されている珍しいもの、イエスがつけられたと言われている十字架の断片である。小さいときから「これは間違いなく本物だ」と信じた私は、(考古学者の意見を無視して)今でもそれを疑う必要はないと思う。大聖堂とともに、この貴重な遺物は学校で学んだヨーロッパの歴史と自分の古里とを繋ぐリンクとなっているのである。十字軍が破壊した東ローマ帝国の首都から持ち出されたものではあるが、小さいときから親しんできた大聖堂と一緒に誇りに思っているのである。因みに、(ユーロがヨーロッパの通貨になる前に)ドイツマルクの1番大きい千マルクの紙幣を飾ったのはこの大聖堂の絵であった。

 -残酷な死刑、ちょっとだけ疑わしい遺物、キリスト教と戦争、宗教とお金の微妙な絡み-このような複雑な背景を把握していない世代にとって、リンブルク教区が毎年盛大な祝祭行事となっている。この十字架称賛の祝日は、私のような古いものには懐かしい思い出となっている。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音、18章3節)と言った人は、矛盾と反省すべき点を厳しく批判しながらも、信頼と愛の大切さを教えてくださった。だからこそ罪のない方が貼り付けられた十字架はこのような信頼と愛の象徴として今でも称賛されるのである。

上空からの写真.jpgのサムネイル画像

1枚目:リンブルク大聖堂 上空からの写真

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2枚目:リンブルク大聖堂 外観

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3枚目:リンブルク大聖堂内の十字架

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4枚目:千マルク紙幣

校長の声『Retreat』

 「軽井沢」と言えば、「ショッピングできる避暑地」というイメージを持っている方が多いかもしれないが、この軽井沢には宗教と関係がある名所もある。軽井沢銀座からChurch Street(教会通り)を通ればアントニン・レイモンドが設計した聖パウロ教会、サンセットポイントとして知られている旧碓氷峠の方面に行けばショー記念礼拝堂、そして雲場池の近くには神言修道会の黙想の家がある。

 黙想の家のことを英語でretreat houseと呼ぶが、この"retreat"という言葉には"to go on retreat"、静かに自分の今まで歩いてきた人生の意味を振り返る「黙想・静修」のほかに、(敗北で終わる可能性がある)戦いからの"retreat"、撤退という意味がある。換言すれば、「黙想」には逃げて撤退する側面は欠かせない。 「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ」(旧約聖書の詩編18編3節)で示されているように、この世の煩悩から神の所に身を潜めたくなる時もあるからである。

 殆ど毎年の夏この黙想の家で静かな時間を過ごしてきた私にとって、軽井沢は-何が本当に大事であるかを考えるための-文字通りの「逃れ場」、日常の雑業に負けないように戦略的な撤退を可能にする場である。言うまでもなく、このような場は軽井沢だけではない。年間行事の「静修の日」が行われている聖園女学院の講堂は今年もまた参加者にとって過去を振り返り、そして今後のことを考えることができる「逃れ場」になることを祈っている。

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1枚目:軽井沢銀座

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2枚目:軽井沢銀座から見たChurch Street

K33.jpg3枚目:聖パウロ教会外見

K34.jpg4枚目:聖パウロ教会内

K35.jpg5枚目:ショー記念礼拝堂

K36.jpg6枚目:雲場池

K37.jpg7枚目:神言会軽井沢修道院

K38.jpg8枚目:神言会軽井沢修道院チャペル

校長の声『Holidays』

 学年を前期と後期にわける、教員・生徒が共に楽しみにしている夏休みとは何か。英語の"holiday"、ドイツ語の"Feiertag"、そしてフランス語の"jour férié"を出発点として、比較文化的な観点からこの勉強とは全く関係ない期間とされているシーズンの意義について考察することにした。

 ただし、今示した3言語の言葉を(仕事や学校のない)「休日」と翻訳できるが、その語源を見る限り、どちらも、大事なことを祝う日として、宗教的な背景がある。Holidayは、文字通り、holy、聖なる日であり、そしてドイツ語とフランス語はラテン語のferiae、神聖な行事を行う祭日である。しかし、夏休みのような休日の連続になると、話は変わる。ドイツ語のSommerferienは宗教的な側面を保っているように見えるかもしれないが、実際に英語とフランス語とが表している同じ現状を指している。ラテン語のvacare、「空白の状態である」に由来する英語の"vacation"とフランス語の"vacances"は宗教と関係ない有給休暇、何の予定も入っていない、空っぽな日の連続なのである。

 考えてみれば、日本にも似たような現象が見られる。昭和天皇の誕生日(昭和の日)、憲法記念日、そしてこどもの日(元々端午の節句)は祝っている内容が無視され、毎年交通渋滞と電車・飛行機の満席でニュースとなる連休に過ぎない。本来大事なことを祝う(祀る)ために設けられた祝日・祭日は単なる「休日」になっている現状を考えれば、聖園女学院の誕生日・創立記念日である5月30日に職員黙想会が開催されることは極めて有意義な企画である。(蛇足になるが、国際的なランキングの休日の数であれば、日本の16日は、韓国等と一緒に第2位である。第1位はインドとコロンビアの18日。)

 さて、かなり批判的な前置きになってしまったが、最後に有意義な夏休みについて自分なりの提案を手短く紹介したい。夏休みの「休」の字はヒントになると思う。「木」にもたれてくつろいでいる「人」のイメージはsummer vacation, Sommerferien, vacancesの精髄を表している気がする。(なお、この都合がいい解釈はあくまでも一人の偏屈な外人の勝手な想像として受け止めてほしい。)しかも、これは決して使徒パウロが批判している「怠惰な生活」(テサロニケの信徒への第2の手紙3章11節)ではない。むしろ自分にしかできないことに打ち込む活動を通して、「自分の木」の下で(大江健三郎著)、自分の本当の姿を再発見できるチャンスは、夏休みのholy daysの元々の意味ではないかと私は思う。

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Ⅰ枚目:日本の夏休み

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2枚目:オランダの夏休み

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3枚目:フランスの夏休み

山の上にある町

 藤沢に来て先ずは、聖園女学院の近辺を歩きながら、新しい生活環境を調べることにした。その時、私の目を引いたのは白旗の住宅地から見える校舎であった。「流石、カトリック学校」と、イエスの有名な言葉を実現した眺めだと思った―「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイによる福音書5章14節。)看板に「みその」のふりがなが加えられたことに納得ができた。多少目立って、聖園の存在を積極的にアピールする狙いが籠められているという印象を受けた。

 私が(学生、そして教員として)38年通っていた南山大学にも同じような風景がある。北から山手通りを登って行けば、名古屋大学を見下ろすA棟の上に「南山大学」という看板が見える(ふりがななし)。やはりトップにいるという立地条件を活用しなければならない。

 ところで、問題点もある。具体例はヨーロッパ研修旅行でギリシアのアテネを見学したときのある学生の一言である。バスからかの有名なアクロポリスを見上げて「今から何をするのですか」という質問に対して「登るよ」と元気よくアナウンスしたら、学生はもう一度この貴重な世界遺産を見上げて「やめた」と言って、バスに残った。

 古代ギリシアからまた藤沢に戻ろう。いつか友人が教えてくれた小林一茶の詩が聞こえてくる気がする。

悠然として 山を見る 蛙かな

 遠くから見られるだけでなく、「登ってみたい町」として今でも慕われている「みその台」を毎日のように登って行くことを積極的に(「継続は力なり」)受け入れても、悠然と見るだけで物事を完結できた蛙が羨ましい。

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