校長の声『真実』
生徒と先生が心を込めて真実を追究することは教育の基盤となっているが、このような正しい姿勢に多少疑問をかける名言はある。
"Never let the truth get in the way of a good story."
「真実は面白いストーリーの邪魔になってはいけない。」
嘘つきを美化するように聞こえるかもしれないが、真実と合わない部分を含むフィクションは、私達を楽しませるストーリーとしてそれなりの意義があると言える。フィクションは真実を否定するよりも、真実の目に見えない別の側面を示しているのである。しかし、私達を楽しませるストーリーにはやはり取りあげにくい真実がある。
「何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時」
(旧約聖書、コヘレトの言葉3章1節~2節)
生死の真実をありのままで投げつける言葉なので、「続きはもう聞きたくない」というつぶやきは自然の反応かもしれないが、このような厳しい話が記されているのは聖書だけではない。
生者必滅 会者定離 (しょうじゃひつめつ えしゃじょうり)
優しい言葉に包むことができない真実をこのままで受け入れることは避けられないが、受け入れてももう一歩先に進むのはある祈りの言葉である。
この人生はたった一度限りの旅だと思うから、
私にできるよいこと、私が友にしてあげられる親切なら、
どんなことでも、今させてください。
再び引き返してくることがないのなら、
先延ばしたり、なおざりにしたくはないのです。
(スティーブン・グレレット)
コヘレトの言葉、そして「生者必滅会者定離」は人生の否定できない真実を語っているが、この厳しい真実を受け止めて、意義がある良いストーリーに変える力はこの祈りの言葉にあるのではないか、と私は思う。良いストーリーの邪魔になるのは(人間が変えることのできない)真実ではなく、自分の物の見方かもしれない。
猛鳥の目が向いているのは浜を歩いている小鳥(或いは海岸でバーベキューをやっている家族のソーセージ)なのか、それとも海と江ノ島の荘厳な風景なのか。写真が伝えている真実をどう読むかによって大分違うストーリーになるのである。