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校長の声

校長の声『"SAKURA"』

 阪神・淡路大震災とオウム真理教のサリン事件で「日本は危ない国だ」という評判が世界に広まった1995年春の話である。両親の三回目の来日で、いつものように観光名所を案内していた。その中には桜の名所で知られている名古屋の山崎川も含まれていた。歩いて行ける距離でもあるし、満開の桜をみて日本文化で伝統的な行事である「花見」を体験して欲しいと思っていたからである。

 ところで、両親の反応は今でも記憶に残っている。川沿いの白い花ばかりで何が面白いか、と。

 あの時から20年経って、今度は妹の家族が日本を訪れた。日程に旅行等をいっぱい取り入れた忙しい3週間であった。北陸から名古屋に帰る長い1日の夕方のことであった。桜の花を見に行こうと誘っても、「もう疲れた」と、彼らはあまり行きたくはなかったが、「これこそ日本の伝統的な行事」だと説得してと無理に鶴舞公園につれて行った。

 予測したとおり、地下鉄の駅を出た途端、彼らの「花見」のイメージは180度変わった。桜の木の下で楽しく飲んだり食べたり大勢の人を見て「花見」の重要な側面がはっきりと見えてきたからである。(ちなみに、山崎川には売店等がなく、静かに桜の花を見ることしかできない場である。)そこにいた人達に背が高い姪の旦那と一緒に写真を撮ってよろしいかと頼まれて、楽しい花見の体験になった。

 ところで、一つの疑問が浮かんできた。このどんちゃん騒ぎは何故「花見」というのか、と。話を聞くために集まった群衆にイエスがかけた質問を思い出す。「あなたがたは何を見に行ったのか。」(ルカによる福音7章24節。)

 COVID-19の感染拡大防止のために今年の花見は花を見るだけになるであろうが、桜の木の下に座って食べたり飲んだりしても、花のメッセージは伝わると私は思う。またイエスの言葉。「なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイによる福音書6章28節~30節)

 浮世の中で生きている人間なので、その時その場で神が備えてくださった花の美しさから力を得るのである。花見はその美しさが見えてくるための訓練かもしれない。

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