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校長の声

校長の声『花火』

 キリスト教の聖典である聖書は「天地創造物語」で始まるが、「神は宇宙万物をどのように創造したか。」の説明には二つのバージョンがある。テキストとして古い方(創世記2章4節以降)において「地と天」を造った後、神は先ず「土の塵」から人を形づくり、そしてその次に人の生活を支える環境を整えた。もっと新しいバージョン(創世記1章1節以降)において自然環境が完成してから、神は最後に人間を「自分にかたどって創造した。」のである。

 存在する全てのものの起源と意味について(自然科学と全く違う観点から)語る聖書なので創造の順番は問題にはならないが、大分前から1つの箇所(1章の3節)を不思議に思っている。

『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』

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 見ている人が誰もいなければ、光の輝きはあり得るのであろうか。我々人間の世界を例にして言えば、時間とお金をかけて準備した花火は誰も見ていなければ、その輝かしい景色は存在するのであろうか。(「もし森で木が倒れて、周辺にそれを聞いた人が存在しなかったら、音は鳴るだろうか?」- "If a tree falls in a forest and no one is around to hear it, does it make a sound?"という、哲学と自然科学の領域をまたがる有名な謎に通ずるところがある。)

 私の勝手な(聖書に根拠のない)推測であるが、最初の光に拍手を送ったのは、神の創造の業を注意深く見守っていた天使だったではないか。(「隻手音声」ではなく、両手を使っての拍手であった。)花火であろうか、神の素晴らしい光であろうか、やはり一人で見てもあまり面白くない。仲間と一緒に感動して、食べたり飲んだりしているからこそ、私達の心を明るくする輝きになる。

K20-2.jpgK20-3.jpg見ている人を圧倒させる大きな打ち上げ花火もあれば、静かに手で持たなければ落ちてしまう線香花火もある。どちらも一瞬で消えてしまう光ではあるが、目に見えなくなっても、私達の心に残っている光をバネにして、世の中をもう少し明るい場にできれば、と思っている。

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